常識を疑ってみる

生徒からのリアクションペーパーなんかを読むと、50分のあいだに彼らの価値観が打ち砕かれるときがあるらしい。たしかに、こちらもそのような体験を企図しているところがあるので、そういう声を聞くと素直に嬉しい。

中学国語の定番教材で言えば、たとえば「『走れメロス』のメロスは実はそんなに急いでいないのではないか?」とか「『少年の日の思い出』の「僕」ってあまり反省してなくない?」みたいな、初読の印象をひっくり返すような授業は、それなりにウケが良かったりする。

それは、ただ単に作品に対しておもしろおかしくツッコミを入れているということではない。いままで素通りしていた文字列が、ある見立てを導入した途端に意味を帯びて浮き上がってくる、その意味の発生の瞬間が面白いのだ。

それまで素通りしていたものに対して、新たな意味を付与すること。同じことを評論文を対象とした授業でおこなうと、今度はもっと直接的に社会性を帯びた授業となる。

たとえば、性別を文化・社会的に構築されたものと考えるジェンダー論や、近代国家が「想像の共同体」(ベネディクト・アンダーソン)であると考える国民国家論は、現代文の領域ではおなじみのものだが、これらはわたしたちが生きる近代社会の枠組みそのものを問い直すような議論である。

あるいは、そもそも、教科書自体が暗に前提とする価値観を暴いてみせようと試みることもある。これらの授業も、生徒によっては、それまで抱いていた社会的な常識や価値観を転換させる契機となるかもしれない。