女子マネージャー禁止制度によるジェンダーの非対称性

そうして新たに獲得した視点からあらためて眺めてみれば、学校という場所にまだまだ不必要な性別役割分担が残っていることに気づくだろう。あるいは、在日外国人のクラスメイトや教員がいることに気づくだろう。これまでもなんとなく目にしていたのだろうけど見過ごされていたモノ・コトが、突然クローズアップされるだろう。

新たに獲得した視点からあらためて眺めてみれば、学校という場所にまだまだ不必要な性別役割分担が残っていることに気づく(写真提供:Photo AC)

このような体験を通して、彼らにとってのさらなる大事な問いが、そこから開始してくれたらいいと思う。

とはいえ難しいのは、このような既存の社会制度や価値観に対して批判の目を向けるような授業は、学校・教員そのものを批判にさらす行為でもある、ということだ。

たとえば、性別役割分担を避けるために「女子マネージャーを認めない」という方針を採っている学校はしばしばある。運動部などに女子が入部するのであれば選手として男子と同じ立場で入部しなさい、ということだ。

この方針は、「男性を支える女性」というイメージを再生産しない、という意味で、個人的には一定の意義深さがあると思う。だから、授業でジェンダーの話をするときには、身近な問題として、この進歩的とも言える事例について話すようにしている。

しかし、授業で議論するさい、必ず次のような疑問が出てくる。

すなわち、この方針は「マネージャーになりたい」という女子生徒の自由な意志を抑圧していないか、という疑問だ。実際、女子マネージャーが認められていない一方で、男性マネージャーは容認されていたりもするので、これはこれで、別のかたちでジェンダーの非対称性が保存されてしまっていると言える。

「それならば、男女ともにマネージャーを認めたらいいのでは?」という意見もありうるが、そもそも、マネージャー制度それ自体が性別役割分担を延命させてきたという反省から女子マネージャー禁止の制度が採用されているので、単純にそうも言えない。どうするのが良いことなのだろう。問いは尽(つ)きない(そうやって問いが連続していくことは、悪いことではないだろう)。