あまりにもいろんなことを経験した4ヶ月

4ヵ月の間、一心不乱に週末の送迎や野球のサポートを続けてきた母は、大会が終わった瞬間から、どこまでも続く喪失感を味わっていた。
クリスマスも家の大掃除も、元日に間に合うように書く年賀状の準備も、全部全部全部諦めてしまった、改め、投げ出してしまった。

準優勝の栄光の輝きが過ぎたあとの、我が家のほったらかしの汚なさよ…。
そしてすぐにまた週末が訪れた時、ここまでずっと一緒に過ごしてきたジャイアンツジュニアの仲間たち、親たち、監督コーチの皆さんの顔が見られないことが、泣きたいほど寂しいお正月だった。

でもそれは、私の話。

当の瑛介はといえばこの4ヵ月の間、あまりにもいろんなことを経験して、体も綿飴がどんどん膨らんでいくように大きくなっていった。何よりこの4ヵ月間にいろんなことが起こり過ぎて、その都度感情が大渋滞を起こして玉突き事故のようになってしまった。
そしてそのまま年末本番を迎えてしまったようなものだった。

ジャイアンツジュニアに合格した時の、屋根を突き破るほど飛び上がった、あの喜びよう。
初めてジャイアンツのユニフォームを渡された時の、嬉しいような泣きたいような、あの気持ち。

ユニフォームをもらった日。父と同じ背番号『2』番を手に

 

ちなみにジャイアンツジュニアの背番号は本人の希望をいくつか出して、その中から監督・コーチが全体を通して決定する。
初めて自分の背番号を知るのは、その番号が縫い付けられたユニフォームを渡された時。

元木大介の「2」も含む、いくつかの番号を希望してはいたが… 

今やほぼ父親と見た目がそっくり、マトリョーシカのような父子。
なので、チームの上の人たちはどうしても瑛介に「2」番を背負わせてやりたいと思ってくださったのだろうか。
ここで私はもう、なにやら寂しくて、「私が産んだのに…私が半分も入ってない」と、背中を丸めて布団から出たくないのである。

私の成分がもっと入っていれば、ツルツルとよく喋る、口から生まれてきた感がもう少し出ていたかもしれない。
あ、でも縄跳びが跳べないところだけは、この母に似てしまいましたね。残念。

でもあの時ほんの一瞬、瑛介の顔が困ったような苦しい表情を見せたのを、母は偶然見逃さなかった。あれが本音だったのかもしれない。