文通と小説の縁で憧れの地・フィンランドへ
ここで少し、僕自身の話をしたいと思います。僕は、今日撮影していただいた東京のこの家で、82年前に生まれました。父はチェリスト、母はピアニストだったので、家ではいつも音楽が奏でられていたし、父や母の音楽仲間が集まって、よく室内楽を演奏していました。
だから身近に楽器があり、音楽があるのが当たり前。物心ついた頃からピアノを弾いていて、ごく自然に東京藝術大学に入り、卒業後はピアニストとしてデビューしました。
最初にヨーロッパに行ったのは1962年。半年ほど滞在し、パリやミュンヘン、モスクワ、北欧4ヵ国を訪れました。実は北欧は、中学生の頃からの憧れの地。本が好きだった僕は、中学生の頃にマリー・ハムズンというノルウェーの作家の小説を読んで感激し、北欧関係の本を熱心に読むようになったのです。
高校時代はフィンランドの少女と文通もしていました。そして半年間のヨーロッパ訪問でも、やはり一番強く印象に残ったのがフィンランドでした。当時のフィンランドは、どちらかというと貧しい国でしたが、人々はつつましい暮らしをしながらも、自国に強い誇りを持っている。そんなところにも惹かれました。
そこで1964年、フィンランドに行って暮らそうと決心しました。もちろん、賛成する人は誰もいません。むしろ、頭がおかしいのではないかとすら言われた。音楽家なのだから、パリやウィーン、ベルリンなどに行くなら理解できる。「おまえほどの才能とキャリアがあって、なんで北の果ての何もないところに行くのか」と、呆れられました。
でも僕は、とにかく日本を離れ、フィンランドで静かに暮らしてみたかったのです。結果的にそこでフィンランド人の声楽家の女性と結婚し、2人の子どもにも恵まれました。大きな転機が訪れたのは2002年、65歳の時です。ちょうどデビュー40周年記念公演中で、日本、アメリカ、ヨーロッパ、オーストラリアと、世界中を演奏して回っていました。
2001年の年末にようやくフィンランドに帰り、年が明けて間もないある日、ヘルシンキから150キロほど離れた、タンペレという都市で演奏会をしていた時のこと。最後の曲を弾き終わる2分くらい前に、だんだん右手が動かなくなってきたのです。おかしいなと思っているうちに、右手が止まってしまった。なんとか左手で最後まで弾き終え、立ち上がってお辞儀をし、2、3歩歩いたところで倒れ込んでしまったのです。脳溢血でした。