手が1本でも2本でもピアノを弾くことに変わりない
それから4日間は意識が戻らない状態に。5日目にはヘルシンキの大学病院に搬送されたものの、口もきけないし、自分でトイレにも行けない。1ヵ月間、そんな状態でした。1ヵ月過ぎた頃、リハビリ病棟に移ることに。最初は歩くのが怖かったけれど、徐々にリハビリが面白くなってきました。
体を動かすリハビリ、手先を動かすリハビリのほか、言葉を話す訓練をしたり、記憶も相当あやしくなっているから記憶を呼び戻す訓練をしたり。さまざまなメニューがあり、充実感があって、楽しくてしょうがない。たどたどしい字で日記を書き始めたのですが、あとで読み返してみると、「ピアノを弾きたい」とか、「弾けなくなってこの先どうしよう」といったことは何も書いていないんです。周りの入院患者を観察して、その様子を面白おかしく書いているだけ。とにかく目の前のリハビリに夢中で、退院していいと言われても、先生に「あと2週間いさせてください」とお願いしたくらいです。(笑)
妻は、ほかの人と同じく僕のピアニスト生命は終わったと考えていたようです。「でも安心して。私が仕事をして稼ぐから」と言ってくれました。いつも海外に出かけていて家にいない夫が、やっとこれからは家にいてくれる、とも思ったようです。
退院して自宅で過ごすようになっても、左手で弾くピアニストになろうなんて考えてもいませんでした。
倒れて1年半くらいたった頃、シカゴに留学し、ヴァイオリンを勉強していた息子が帰ってきて、イギリスの作曲家ブリッジの「左手のための三つのインプロヴィゼーション」という曲の楽譜を置いていきました。その楽譜を手にとって見た瞬間、「あっ、これをやればいいんだ」と直感。本当に1秒か2秒くらいのことでしたね。ここにこんなに立派な音楽があって、自分はこの作品を演奏できる。ピアノを弾くのに手が1本であろうと2本であろうとかわりのないことなのだ、と──。
その翌々日には、ヘルシンキから旧知の作曲家・間宮芳生さんに、「僕は来年の5月に日本で復帰の演奏会をするので、曲を書いてください」とFAXを送りました。すると1日置いて、「喜んで書きます」という返事が届いたのです。フィンランド人の作曲家で、長年仲良くしていた友人のノルドグレンも、素晴らしい曲を書いてくれました。2人の曲を中心に、2004年、復帰の演奏会をしたわけです。