集う意味

次なる壁は、いったいどういうコンサートにすべきか、ということだった。

コロナ禍の始まりのときには、誰しもが「孤独」だったからこそ、「孤独のアンサンブル」が多くの視聴者に響いた。ようやく人々が集い始め、明日を見据えられるようになってきたときには「明日へのアンサンブル」が響いた。コロナ禍と対峙する私たちの「心の位置」と連動しながら番組を展開し、癒しと感動を届けることができた。

では2022年12月における、私たちの「心の位置」はどこなのだろうか。

コロナ感染者数が急増する波は、何度も何度も押し寄せていた。だがワクチン接種は進み、規制も緩くなる方向だ。コロナ禍は私たちの願望に沿って、社会的な収斂へ向かっているようでもある。コロナに慣れ、怖いという感覚が遠のいているかもしれない。もはや2022年の年末には、私たちはコロナ禍を「忘却」しているのでは、そんなことを強く感じていた。

であるなら、クラシックのコンサートが正常化する中で、「孤独のアンサンブル」の面々がいまさら集う意味などあるのだろうか?

都響の矢部に相談すると、ともに悩んでくれた。あの当時と違い、メンバーも今は、各々のオーケストラ活動に注力しているし、ともすると単なる「寄せ集め」のコンサートになってしまう、それを打破する意味合いを見つける必要がありますね、と言われた。ただ、矢部を始め、メンバーたちはそれでも本能的に「集いたい」と思っているのはたしかだった。その想いを言語化しなくてはならない。そう思った。

メンバーたちはそれでも本能的に「集いたい」と思っているのはたしかだった(写真:著者)

とはいえ、半年たっても、良い言葉は出てこなかった。「希望へのアンサンブル」「未来へのアンサンブル」・・・いろいろと考えたが、どれもしっくりこない。

未来だけを見ていては、何か大事なことを置きざりにしてしまうのではないか。私たちの心の位置が、コロナ禍を忘却しかかっているのだとしても、あのとき強く感じた「孤独」という想いまで忘れてしまってはいけないのではないか。

そうして、ついに出てきた言葉。それが、「共生へのアンサンブル」だった。思いついた途端、一気に企画書の筆が走り始めた。

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私たちは、コロナ禍の「孤独」を決して忘れない。

あのとき、みんな孤独だった。

あなたも、私も、そして音楽家たちも。

私たちの誰もがいたたまれないほどの不安に苛まれた、孤独の日々。

でも、孤独だけれど、ひとりぼっちじゃなかった。

もう一度、みなが共につながる力を確かめよう。

音楽の持つ、心をつなぐ力を確かめよう。

そして、共に生きることで、コロナ禍の先にある未来へと、足を踏み出そう。

「共生へのアンサンブル」。

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