ところが、そこであたしは次の問題にブチ当たった。――古いやつを捨てられない。
20年といえば、犬なら、驚くほどの老犬になるし、人間なら成人式だ。サクラやセンダンなら一丁前の大木になり、車なら、直し直し乗れないでもない……と比べている自分に気づいた。
ばかばかしい。我ながら思った。現実をみろ、古スポンジだ。
今捨てられないのなら、台所でちぎれるまで使ってから捨てようと考えたが、台所で使い出すと、なんとお風呂用スポンジの大きさがじゃまである。風呂おけの中なら自在にこすれていたのに、コップの中には大きすぎて入れることもできない。
だいぶ経ったとき、2週間くらい経ってたと思うが、あたしはついに覚悟をきめた。
紙袋のきれいなやつを探し出し、古スポンジを入れ、紙袋の上を折り、ほかのゴミと一緒に生ゴミ用の熊本市指定袋に入れて、生ゴミの日に出したのである。
感傷かもしれない。記憶、いっぱいひきずりすぎてて始末できなくなっているのかもしれないし、人の顔に「生きてる」ような錯覚を起こしているのかもしれないし、とにかく厄介なことだ。
古スポンジだけじゃない、古タオルや古食器には人の顔なんかついてないのに、捨てられない。古服はもう何にも捨てられない。本なんてとんでもないから、家の中が埃だらけの要塞となり、猫がときどき崩している。ぼろぼろになった猫の爪とぎですら、情が残るというか何というか、捨てられない。こうやってひとり暮らしの家の中に、不用品がたまっていくのである。
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米国人の夫の看取り、20余年住んだカリフォルニアから熊本に拠点を移したあたしの新たな生活が始まった。
週1回上京し大学で教える日々は多忙を極め、愛用するのはコンビニとサイゼリヤ。自宅には愛犬と植物の鉢植え多数。そこへ猫二匹までもが加わって……。襲い来るのは台風にコロナ。老いゆく体は悲鳴をあげる。一人の暮らしの自由と寂寥、60代もいよいよ半ばの体感を、小気味よく直截に書き記す、これぞ女たちのための〈言葉の道しるべ〉。