2024年に芸能生活60年目を迎える

実は、五木さんは、作曲した作品は数多く残しているが、作詞はめったにしない。プロの作詞家への敬意をこめて「自分自身のことしか書けない」という彼が作詞したのは、この「時は流れて・・・」ともう一曲だけ。そのもう一曲とは、娘のために書いた「愛しき娘よ」という曲である。自分自身のことを自分の言葉で書いた「時は流れて・・・」は芸能生活60年を振り返り、さまざまな思いをよぎらせながら、60年分の思いが詰めこまれた作品となった。歌詞に出てくる「新しい世代」「未来の世代」とは、自身の孫のことだという。

2024年に芸能生活60年目を迎えますが、思えば、この60年、いつも走り続けてきました。スケジュールが埋まっていないと不安でね。暇なのはいやなんです。休みなんていらない。(笑)

子どもの頃、ある日父親が出ていってしまい、両親は離婚しました。僕は4人きょうだいの末っ子なんですが、年上の姉たちは家を出ていたりして、僕が一番おふくろと一緒にいる時間が長かった。間近でその苦労を見ているから、早くスターになって母を楽させてやりたいという一心でした。小学生の僕が朝起きると、おふくろはもう働きに出ているし、夜は僕がお風呂を沸かしたり炭をおこしたりして待っているとようやく帰ってくる。休んでいるのなんて見たことがない。土日も働きづめです。年がら年中働いているおふくろをゆっくり寝かせてやりたいとずっと思っていました。だからとにかく成功したかった。「いつかはチャンスをつかむんだ」「スターになるんだ」という気持ちは人一倍強かったと思います。

子どものころから歌はうまかったです。これはたぶん父の影響だったと思います。けっこうおしゃれな親父でね。歌が大好きでいつも蓄音機からハイカラな歌が流れてたんです。いつの間にか覚えて、5、6歳のころ、大人の前でいろんな歌を歌うと、みんながうまいうまいと言ってお小遣いをくれたりしてね、お祭りなんかがあると、必ず駆り出されて舞台の上で歌っていました。近所では「松山の家の末っ子は歌がうまい」と評判になっていたんですよ。

だからこそ、田舎にいるのが悔しくてしょうがなかった。都会なら歌手になるチャンスがあるだろうにと…。早く都会に出てチャンスをつかみたいと思って中学の卒業式の翌日には、姉を頼って京都の音楽学校に入学しました。

「芸能界で歌って60年、人前で歌い始めたのはもっと前ですね」と語る五木ひろしさん。昭和の名曲を歌い継ぐという使命を感じて後進の指導も(写真撮影:本社・奥西義和)