松山まさるとして出したレコードはヒットせず

音楽学校では飛び級で予科から本科に上がり、教員から抜擢されてバンド活動にも加わっていたところ、スカウトされて上京。作曲家上原げんとさんの内弟子になる。
一緒に内弟子に入った松方弘樹さんが、五木さんの歌のうまさに圧倒され、歌手の道をあきらめて俳優になる決心をしたのは今や伝説となっている。

上京してすぐにコロムビアの歌謡コンクールで優勝して、コロムビアの専属歌手として契約しました。1964年です。上原げんと先生には歌に関してはあまり教えていただけなかったんですよ。行った日にいきなり肩をもんでくれと言われて肩もみをしたら「ぼうや、うまいなあ」って。(笑)

子どものころからおふくろの肩をもんでいたから自信はありましたが、先生の肩はカチカチで、指が入らなかったのを覚えています。その翌年にお亡くなりになったので、ずいぶんお加減が悪かったのかもしれません。

そして「松山まさる」としてデビューしたけれど、頼みの綱の師匠を喪ったことで、途方にくれました。松山まさるとしては6枚のレコードを出しましたが、ヒットしなかった。

デビュー当時、レコード店で店頭プロモーションをしている五木さん(写真提供:五木プロモーション) 

そしたらそのころ出会った人が「移籍したほうがいいよ」というのでレコード会社を移籍して、今度は「一条英一」になって、再デビュー。それでも売れない。それでまた移籍です。

僕ね、今思うと、必ず手を差し伸べてくれる人がいたんです。作曲の先生だったり、作詞家だったり、ディレクターだったりね。それで移籍はできるわけです。移籍すればその都度、リセットして再デビューなので、名前を変えるのは仕方ないですよね。

次の「三谷謙」のときには、銀座や赤坂、新宿のクラブで弾き語りを始めて、けっこうな収入を得るようになりました。「弾き語りの謙ちゃん」なんて言われて、銀座のママたちやみんなにかわいがってもらってね。

スターにはなっていないけれど、クラブではファンもついていた。これはこれでありかな?とも思いましたよ。好きな歌は歌えてるわけだし。

そしたらある時、「全日本歌謡選手権」という高視聴率番組の収録が福井であると、知り合いのディレクターから連絡があったんです。「出てみない?」と言われて、かなり迷いました。だってもうすでにかなりの収入もあったし、一番は、プロとして歌ってるのに万が一番組で恥ずかしい結果を出したらそのあとやっていけない。アマチュアなら素直にチャレンジできるけど、すでにプロですからね、プレッシャーがあって怖かったです。しばらく悩みました。それで福井での収録は行けなかった。でもその後、毎週、番組を見ていて、やっぱり僕の夢はスターになることだ、と思い出したんです。今の生活もありかもしれないけれど、このままじゃ終われない。それで覚悟を決めて、出入りしていたクラブすべてに「やめます」と宣言しました。やるからには退路を断って挑戦しなければ、と。帰るところを残していたんじゃだめだと思ったんです。出るからには勝負すべきでしょう。