ゲームの説明書がない時代

中山 ゲームにはどうつながるんですか?

鳥嶋 エニックス*5を立ち上げたばかりのメンバーの千田さん*6の持ち込み企画があったんです。エニックスは、これからゲームが来るんじゃないかとPCソフト流通の事業を3人のメンバーで始めていた。でも肝心のPCソフトがないっていうので、なけなしの100万円でコンテストをやってソフト募集をしようという話になった。

メディアに宣伝してもらうために、テレビはNHK、雑誌はジャンプに話の持ち込みがあったんです。これは面白いと思って、ジャンプの独占にしてくれと話をしたんです。

『エンタの巨匠 世界に先駆けた伝説のプロデューサーたち』(著:中山淳雄/日経BP)

中山 そこでライターを依頼したのが堀井さんだったわけですね。彼自身もライターなのに自作の『ラブマッチテニス』を応募して佳作を受賞した。あとは中村光一さん*7ですよね。

鳥嶋 このコンテストは中村くんが出てきただけでも大きな価値があった。当時高校生だったんで、中村くんはPCを持ってなかったんですよ。あの『ドアドア』はショップで店員と仲良くなって、店頭でプログラム書き上げたという話があるくらい。一種の天才ですね。

受賞後にエニックスの千田さんが、受賞した堀井さんと中村くんの2人の組み合わせでゲームを作りたいという相談があった。そこでアイデアのもとになったのが米国の『ウィザードリイ』と『ウルティマ』だったんです*8。実はコンテストのご褒美として、彼らはロサンゼルスのアップルに取材出張に行ったんですよ。僕もそこに便乗しました。

中山 え、鳥嶋さんも行ったんですか! スティーブ・ジョブスが追い出される直前くらいですよね?

鳥嶋 当時PCソフトの特集をしていたけど、日本のものって、じゃんけんしたら女の子が服を脱ぐみたいなつまらないものばかりだったんですよ。いいソフトはほとんどアップルのソフトだったから、出張でたくさん買い込んできて、特集するためにプレイしていた。

説明書が全然ない時代で、当時ASCII『ログイン』の河野くん*9にギャラを払ってプレイしてもらいながら、どういうふうにプレイするかつかんでいった。それが『ドラゴンクエスト』*10につながっていったんです。

*5 エニックス:福嶋康博(1947~)が創業した。福嶋は日本大学卒業後に米・印・東南アジアを放浪。その後、公団住宅情報誌事業を1975年創業、寿司ロボット事業の失敗後、1982年にエニックスを創業し、「ゲーム・ホビープログラムコンテスト」を展開。第1回は300作品の応募があった。

*6 千田幸信(1950~):1974年にCIS入社、1982年に福嶋康博とともにエニックス設立に参画、その後スクウェア・エニックス取締役。1986~2000年ごろまで『ドラゴンクエスト』シリーズのプロデューサーを担当する。

*7 中村光一(1964~):現スパイク・チュンソフト取締役会長。高校3年生の時に『ドアドア』で準優勝にあたる優秀プログラム賞で50万円の賞金獲得。電気通信大学時代の1984年にチュンソフトを創業、『ドラゴンクエスト』は1~5まで開発に関わる。その後『弟切草』『かまいたちの夜』『風来のシレン』などを手掛けてきた。

*8『ウィザードリイ』は1981年にアップル2用ソフトとして発売された3DダンジョンRPG、『ウルティマ』は1979年に発表されたアップル向けの2DフィールドスタイルのRPG。ダンジョンばかりの『ウィザードリイ』と、戦いがつまらない『ウルティマ』の良いところを組み合わせて、『ドラゴンクエスト』シリーズが作られた。

*9 河野真太郎:1982年に発刊された『ASCII別冊ログイン』の4代目編集長。

*10 ドラゴンクエスト:1986年にエニックスから発売されたRPGゲームの金字塔。全シリーズ合計で累計8300万本が出荷されている。