非現実的な小西一番隊の速度

じつは、文禄の役の資料を見ているうちにふと気づいたことがあります。小西行長らが率いる一番隊1万8800人は、1592年の4月12日に釜山に上陸し、13日に釜山城を陥落させました。そのあと首都・漢城府をめざして進軍し、5月2日に漢城府に入城したとされています(図1)。

図1:小西行長と加藤清正の進軍ルート(『日本史サイエンス〈弐〉』より)

釜山から漢城府までは、地図上の直線距離で約350キロです。実際に行軍した距離を3割増しで455キロとし、釜山を14日に出発したとすれば、19日でこの距離を移動したことになります。すると単純計算で、1日あたりの移動距離は24キロです。

日本史上で奇跡的なスピードの行軍として知られているのが、本能寺の変を起こした明智光秀を討つために秀吉が備中高松から京へ戻ったときの、いわゆる中国大返しです。このとき秀吉軍約2万人は、約220キロを8日ほどで走破しています。一日平均の移動距離は27キロ強です。

大日本帝国陸軍では、行軍距離の目安を「行軍1日の行程は普通の情況の諸兵連合の大部隊では昼夜約24キロを標準とする」と定めていました。小西行長の行軍と同じです。

しかし行長の場合は、地理も不案内な異国で、中国大返しの2倍以上の日数を行軍しているのです。何よりそこは敵地であり、行軍中には東らい城の戦い、梁山城の戦い、鵲院関(じゃくいんかん)の戦い、尚州の戦い、忠州の戦いなどを戦わなくてはなりませんでした。

とても「普通の情況」とはいえません。むしろ奇跡とされた中国大返しと同等か、それ以上に厳しい条件ではないでしょうか。

そう考えたとき、小西一番隊の速度は驚異的というより、むしろ非現実的にも思えるのです。