朝鮮出兵での日本軍の兵站が万全だったとは思えない
後世の私たちは、慶長の役の蔚山城(うるさんじょう)での城戦で、加藤清正が餓死寸前になりながら敵を撃退した、といった武勇伝を頭に刷り込まれていますので、食料が多少不足しても精神力で乗り切れるだろうなどと思いがちですが、体内の備蓄エネルギーを使い切れば人間は動けなくなり、それは戦場では死を意味します。
「腹が減っては戦はできぬ」という言葉は真実です。そう考えていくと、朝鮮出兵での日本軍の兵站が万全だったとは、とても思えないのです。
旧陸軍士官学校の砲兵科出身で、幹部学校戦術教官などをつとめた金子常規氏は著書『兵器と戦術の日本史』(原書房)のなかで文禄・慶長の役について分析し、もし明を征服するなら日本軍は釜山だけでなく、朝鮮の首都・漢城近くの海岸付近にも拠点を設け、ここを兵站のための大規模補給基地とすべきであり、ここから北京の海岸近くの港まで船で進軍して海路、北京を攻める征明構想を描くべきである、としています。
言い換えれば、これだけ行動範囲の大きな戦いでは兵站が最も重要であるにもかかわらず、釜山から陸路で補給するだけでは明の攻略などそもそも不可能で、海から補給しながら進軍すべきであるというのです。