本誌元編集長で、日本初の商業誌の女性編集長として知られる三枝佐枝子(さいぐさ・さえこ)さんが2023年1月、102歳で亡くなった。ここでは当時話題を呼んだ誌面や、瀬戸内寂聴さん、佐藤愛子さんら作家、知識人に転機をもたらした仕事などを紹介。その雑誌づくりで目指したのは、戦後を生きる女性の背中を押すことだった。

<その2よりつづく

【1960/昭和35年】
「恐怖の判決」瀬戸内晴美

「恐怖の判決」瀬戸内晴美
53年、徳島市に住む三枝亀三郎さんが殺害された、通称「徳島ラジオ商殺し」事件。逮捕された内縁の妻・茂子さんは、犯行を否認するも一審で懲役13年の判決が下される。

茂子さんの無実を訴え、神近市子さんや市川房枝さんらも活動した。この事件ルポが本誌での初仕事であったと、後年、瀬戸内寂聴さんが振り返る。

はじめて『婦人公論』の仕事をさせてもらったのは、(中略)名編集長三枝佐枝子さんからの話で、当時話題になっていた「徳島ラジオ商殺し」で入獄中の、冨士茂子さんの件で、取材するようにということであった。

まだかけ出しで『田村俊子』をやっと書いたばかりの無名の私に、そんな大仕事が舞いこんだのは、私が茂子さんと同じ徳島生れで、同じ徳島県立高等女学校の同窓だということからだった。(中略)

それはいざ踏みこんでみると、深い泥沼のようで、足の抜けない不気味な事件であった。おかげで私はそれ以来、二十数年もこの事件に関わりつづけ、茂子さんの死後まで闘って、ついに茂子さんの無実を勝ち取ったのだった。

この事件は、その後の私の思想や生き方に強烈な影響を与えている。私が今もしばしば社会的発言をしたりするのは、この時の名残りである。

(『婦人公論』97年9月号より)