妾の存在に苦しめられた結婚生活

大関和(ちか)は、幕末に黒羽藩(今の栃木県大田原市付近)の家老の娘として生まれました。明治維新によって没落した一家は縁戚を頼って上京します。

『明治のナイチンゲール 大関和物語』(著:田中ひかる/中央公論新社)

苦しい生活が続きますが、和が18歳のとき、故郷黒羽の大地主との縁談がまとまりました。「玉の輿」と祝福された結婚でしたが、22歳年上の夫には妾がおり、和はその存在に苦しみます。当時、妾の存在は法的にも認められており、「一夫多妻」は珍しくありませんでした。

周囲では、コレラの流行などによる不況が原因で、小作の娘たちが遊郭へ売られていきます。明治政府は「芸娼妓解放令」を出し、芸者や女郎を解放するという方針を示しながら、実質は女郎屋を「貸座敷」、女郎を「娼妓」と称し、これらを公認していました(公娼制度)。

こうした理不尽を看過しながら、地主の嫁として生きていくことに疑問を感じた和は、二歳の長男とお腹の中の子とともに婚家を去り、東京の実家で長女を出産しました。妻からの離縁が難しかった時代に、子連れ離婚を実行し、シングルマザーとして生きる決意を固めたのです。

和は、同居する母親に子どもたちを預け、女中をしながら英語を学び、通訳や英語講師の仕事につきます。その間に牧師の植村正久(キリスト教界の指導者的存在)に出会い、クリスチャンになりました。和がキリスト教に惹かれた最大の理由は、夫婦のあるべき形を「一夫一婦」と説いているからでした。