横浜の貧民窟で「看護婦」になることを決意

あるとき和は植村正久から、宣教師のマリア・トゥルーが設立する看護学校に入らないかと熱心に勧められます。マリアは、日本に「トレインド・ナース」、つまり専門的に学んだ「看護婦」がいないことを憂い、自身が経営する桜井女学校(現女子学院)に附属の看護学校を作ろうとしていました。

しかし、和はまったく心が動きません。なぜなら、当時すでに病人や怪我人の世話をする「看病婦」という仕事がありましたが、「金のために汚い仕事もいとわず、時には命まで差し出す賤業」で、「すれっからし」や「あばずれ」がなるものとされていたからです。「看病婦」のなり手がないため、吉原から「やりて婆」を連れてきて看病にあたらせている病院もありました。

実際、「看病婦」はコレラや赤痢などの伝染病患者が出た家や、伝染病患者を隔離する「避病院」で雇われることが多く、感染して命を落とすことが珍しくなかったのです。しかし、そうした悲劇を防ぐためにも、専門的な知識や技能を身につけた「看護婦」が必要でした。

正久に、「病人を真心をもって看護することほど、キリストの教えに適う職業はありません」とさとされた和は、とりあえずマリア・トゥルーに会ってみようと、彼女が横浜の貧民窟で定期的に行っている貧民救済活動に参加します。

住民たちにパンを配りながら和が目にしたのは、劣悪な生活環境、それがもたらす病、体を売るほかに稼ぐ手段のない女性たちの姿でした。マリアに「ここに必要なのは、十分な栄養と清潔な環境、そして女性たちの雇用です。それらをすべて満たすことができるのが、看護婦という職業です」と言われ、和は看護婦となることを決意しました。