医師たちとの軋轢から病院を退職

明治20年(1887年)、和は28歳で桜井女学校附属看護婦養成所に一期生として入学します。新入生は和をふくめ8人。その中の1人、ひとつ年上の鈴木雅との出会いは運命と言ってもよいでしょう。雅も戊辰戦争で夫を失ったシングルマザーでした。二人は助け合いながら看護学校を修了し、和は第一医院(現東京大学医学部附属病院)の外科の看病婦取締(今日の看護師長)に、雅は内科の看病婦取締となります。

前列右から2人目が大関和。同じく左から2人目が鈴木雅。中央が看護教師のアグネス・ヴェッチ

この頃の和の仕事ぶりは、「正しと信ずるところにはいささかの躊躇もなく、言うよりも早く実行がある。おのずからその誠実はあらわれて患者の信頼は深く(中略)大関婦長が入ってくると患者の顔が明るくなるとさえ言われていた」(相馬黒光『穂高高原』)と伝えられています。

和に好意を寄せる男性医師も少なくありませんでしたが、和が相手にしないため、中にはプライドを傷つけられたと感じる医師もいました。さらに、看護婦として主体的に働こうとする和と、看護婦は医師の助手にすぎないと考える医師たちの間に、軋轢が生じていきます。

第一医院では看病婦たちの要望もあり、「看護講習」の時間を設けました。しかし、激務をこなしながらの講習は看病婦たちの睡眠時間を奪い、勤務中に倒れてしまう者もいました。この状況を見かねた和は、看病婦たちの労働環境の改善を求める建議書を外科の責任者である教授へ提出しますが、これが医師たちの不興を買い、病院を去ることになります。