関東大震災の救護活動で使命を果たす
「賤業」のイメージを一気に払拭し、看護婦を憧れの職業に変えたのが、日清戦争で活躍した日本赤十字社の「篤志看護婦」たちでした。女性が経済的自立をはかることができる数少ない職業でもあったため、志望者が激増しますが、資格や制度がなかったため、名ばかりの看護婦も増え、世間で悪評が立つようになります。
このままでは看護婦がまた「賤業」へ戻ってしまうと憂えた和は、低劣な看護婦たちの取り締まりと、看護婦の資格化、制度化を政府へはたらきかけます。一方、鈴木雅はある程度の規制は必要としながらも、取り締まりを政府へ依存することは、最終的に看護婦界全体の首をしめることになるのではないかと懸念します。
和の意向を受けて「看護婦規則」が公布された翌年、雅は突如として看護婦を引退しました。規則の内容と、看護婦が主体的に働くという雅の理想が相容れなかったからではないかと言われています。
大正12年(1923年)9月1日、南関東を大地震が襲い、10万5000人以上の死者及び行方不明者を出します。被災地では、地震直後から大勢の看護婦たちが自主的に、あるいは組織的に救護活動を行いました。65歳となり持病を抱えていた和も、最後の力をふりしぼり使命を果たします。
「関東大震災」から今年でちょうど百年。戦争、疫病、災害における看護婦たちの活動は、彼女たちへのゆるぎない信頼となり、今日「看護師」は社会になくてはならない職業として定着しています。
『明治のナイチンゲール 大関和物語』(著:田中ひかる/中央公論新社)
今や看護師は、社会に欠かせない職業である。所定の学校で専門知識や技能を身につけ、国家試験に受かってはじめて就くことのできる専門職であり、人の健康や命を守る尊い職業として、広く認知されている。しかしかつては、「カネのために汚い仕事も厭わず、命まで差し出す賤業」と見なされていた。家老の娘に生まれながら、この「賤業」につき、生涯をかけて「看護婦」の制度化と技能の向上に努めたのが、大関和(ちか)である。和は離婚して二人の子を育てる母親でもあった。和とともに看護婦となり、彼女を支え続けた鈴木雅もまた、二人の子を持つ「寡婦」であった。 これは近代日本において、看護婦という職業の礎を築いた二人のシングルマザーの物語である。