女性差別撤廃条約採択決議、国連総会の結果は
1970年代は、「機能平等論」からの転換期であった。新たな潮流が生まれるなかで、「女性差別撤廃条約」の審議が始まったのである。
古くからの「機能平等論」を支持したのは、社会主義体制をとっていた当時のソ連(当時、以下同)や東ドイツの代表らで「女性に対する保護を拡充すべきだ」という。
これに対して、北欧諸国や西ドイツ、また国際労働機関(ILO)は、「女性の特性論、役割論こそが、女性の権利確立の最大の障壁である。女性にとって有害な労働条件は、男性にとっても有害である」といった、機能平等論を超える主張を展開した。
議論は平行線をたどったまま、1979年12月18日、いよいよ女性差別撤廃条約の採択決議の日を迎える。ニューヨークにある国連総会の会議場は緊張感に包まれた。ふたをあけると、日本を含めて賛成130、反対0、棄権10。ソ連や東ドイツも採択にあたっては、強硬に反対票を投じることはなかった。
会場にいた国連公使の赤松良子は、文字通り仲間と抱き合って喜んだ。しかし、興奮の渦中にあって「はたして日本はこの条約を批准できるのだろうか」と不安を抱いていたのも事実である。
一報を聞いた市川は、今度もまた素早く動いた。代表団に入っていた中村道子(当時・成城大学教授)に条約文を翻訳して送ってくれと頼んだのだ。市川が代表団に推薦した中村道子は、幼少期を米国で過ごしており英語に堪能であった。
市川はこの翻訳文を国内の団体に広く広報して批准に向けて声明文を出すように促し、総理府や外務省に仲間とともに出向いて条約批准を求める申し入れを行った。外務省が条文全文「仮訳」を発表したのは、その後のことである。
市川がA3版黄色い用紙の「外務省仮訳」に赤鉛筆でメモを書き込んだものが市川房枝記念展示室に残されている。下線を入れたり、解釈を書き込んだりと、熱心に読みこんだことがうかがえる。
条約は、ひとつの大きな転換点となるものであった。女性差別の考え方について本質的に大きな変化があったのだ。そのポイントは、以下2点である。