わずか24秒で主役を手に入れた

次に仕事にありついたのは、27歳のときです。NHKのある番組で男性ダンサーが1人足りなくなり、仲間のダンサーが私を誘ってくれたんです。24小節の、1小節1秒として24秒の踊りでした。仕事を終えて、NHKの玄関を出るとき、思いました。「今度はいつ、仕事ができるだろう」って。

と、思った瞬間、「あなた」と後ろから声がかかったんです。「今日、あなたの踊りを拝見しましたが、とてもよかった。新番組の司会者を探しているのですが、あなた、やりますか?」と言われたんです。私は踊っただけで一言も喋ってないのに、よほど格好よかったんでしょうねえ。(笑)

わずか24秒で主役を手に入れた新番組のタイトルは『音楽特急列車』。しゃれた、素敵な番組でした。歌い手も立川澄人、ダークダックスという一流どころなら、振り付けも構成も一流の人が担当していて、番組のエンディングではお尻に羽根飾りをつけた女性ダンサーが見事なラインダンスを踊るの。ところが、これがNHKのおエラいさんの逆鱗に触れ、番組はわずか半年で終了。

その後は、私を『音楽特急列車』に誘ったデイレクターのコネで、『わんぱくテレビ局』という番組に、月に1編の唄を書いていました。1行300円でした。でも、私は貧乏でしょう。ついつい行数が増えるの。(笑)

たとえば『北風の歌』の「北風がピューピューピュー」の「ピュー」だけで1行にしちゃう(笑)。しかし、月に1本ですからねえ。ほかの仕事を入れても、当時の私の年収は10万円程度でした。

次に来たのが、同じNHKの『ブーフーウー』の狼の役。私はダンサーですから、自在に動けるでしょう。事実、私が演じる愛嬌のある狼は非常に好評でした。ところが、次第にスランプに陥ってしまった。台本もよけりゃ、人形も立派。となると、狼の役は私でなくてもいいんじゃないか、と思うようになったんです。

で、自己嫌悪に陥っていたところに、「ノッポさん」の話が来たわけ。「今度、教育番組に幼児向けの工作番組を作るのですが、ただ工作の手順を教えるのではなく、工作そのものの楽しさを伝える番組にしたい。そこで、君のように楽しく動ける人に出てもらいたい」というのが出演依頼の内容でした。

最初は『なにしてあそば』というのが番組名で、『できるかな』が始まったのはその3年後でした。ちなみに「ノッポさん」という名前の名付け親は脚本家です。当時、私はすでに30歳を過ぎていましたから、「お兄さん」でも「おじさん」でもない。「ノッポさん」は非常に自然なネーミングでした。といっても、今日に至るまで、その名前で呼ばれることになるとは思いもしませんでしたが。(笑)

さて、ずいぶん長くなりましたが、ここまでが私がノッポさんになったいきさつです。では、いよいよ、小さいひとたちとのつき合い方をお話ししましょうか。