子どもたちにお世辞も言わないし、ウソもつかない

たとえば、私が幼稚園の卒園式で卒園児代表として謝辞を述べる役をおおせつかったときのこと。私の父は母の姉一家が経営する工場に雇われていたと話しましたが、そこの同い年のいとこが同じ幼稚園だったんですね。当然、伯母は私が代表に選ばれたのがおもしろくない。

そこで伯母がなにをしたかというと、「謝辞を読むお稽古をつけてあげる」ということで私を呼び出し、読み方に言いがかりをつけたあげく、「この子には大役は無理」ということで、勝手に役を返上してしまったんです。伯母は、妹の子どもであり従業員の子どもである私が、自分の娘よりも上にいるのは我慢ならなかったんですね。

私は6歳でしたが、ことの顛末を知ったオフクロの「姉さんたら!」の一言ですべてを悟り、あまりの馬鹿馬鹿しさにため息をつきましたよ。

ご近所にあって、いつも遊びに行っていた印刷工場で、鍵をかけられ、居留守を使われたときの悲しみ、屈辱、怒りもいまだに忘れられません。ある日、いつものように遊びに行ったら、ガラス戸に鍵がかかっている。留守だと思って帰ろうとしたら、中に人のいる気配がする。

ほっとして、「あけてよ」と言う私を、工場の人たちはガラス戸の向こうで気配を押し殺してクスクス笑っていたんです。きっと、その日は忙しくて、私の相手をしている暇がなかったので、居留守を使って私を追い払おうとしたんでしょう。

でも、工場の人たちは私にきちんと説明すべきでした。そりゃあ、遊んでもらいたい私は、ちゃんと説明されても怒ったと思いますよ。でも、怒りはそのうちに静まるし、静まればまた遊びに行ったでしょう。でも、居留守という卑劣な手段を使われた私は、以後、二度と遊びに行かなかった。

そんな悲しい思い出が身に沁みているので、私は小さいひとには、自分がされて嫌だったことを決してしないようになったんでしょうね。だからお世辞も言わないし、ウソもつかない。ウソをついたときは、ちゃんと謝る。逆に、小さいひとからされて嫌なことは、その旨をきちんと、でも丁寧に説明します。

たとえば、この前のショウでね、「ノッポさ〜ん」という声のなかで、一人だけ「ノッポ!」と呼び捨てにする子がいたんですよ。私が、「おじさんのこと、本当はさんづけで呼んでくれると、うれしいんだけどな」と言うと、次からはその子、小さな声で、「ノッポさ〜ん」って(笑)。そりゃもう、かわいいものです。

 

ノッポさんは、褒めるときは心から褒めるし、怒るときは全身全霊で怒るという。ノッポさんの態度にはウソがない。子どもがノッポさんを慕うのは「この人にはウソがない。ノッポさんの言っていること、やっていることはそのまま信じていいんだ」ということを瞬時に悟るからではないだろうか。