1948年に施行された「優生保護法」は2つの側面を持っていた。一つは「母性の生命健康の保護」、そしてもう一つは「不良な子孫の出生を防止すること」———。優生思想に基づいた後者の考え方から、当時横行した強制不妊手術。「子どもがほしい」という人として当然の願いを踏みにじられた当事者は、2018年、次々と国を提訴した。半世紀近くも苦しんできた人々の肉声とは? 

「この不幸が闇に葬られるのは、どうしても嫌だった」

「あの手術さえなければ、今頃は孫たちに囲まれて楽しい人生を送っていただろうに……」

宮城県仙台市の自宅で、飯塚淳子さん(70代・仮名)は涙を浮かべた。あの手術とは、16歳の時、強制的に受けさせられた不妊手術だ。周囲の大人の思惑によって、突然、「子どもが産めない」体にされたのである。その事実は飯塚さんの人生に暗い影を落とし、50年以上も苦しめることになった。だが、20年ほど前に、実態を知ってもらおうと立ち上がり、たった一人で闘ってきたという。

飯塚さんは宮城県の沿岸部で生まれた。農家の7人きょうだいの長女。家は貧しかったが、中学2年生まではごく普通に育ったという。ところが進級すると、「素行が悪い」「“精神薄弱”の疑いがある」などの理由で、仙台市内の小松島学園という特別支援施設に入れられてしまった。

「近所に住んでいた民生委員が、私が野菜や財布を盗んだとをついたのです。農家でしたから、野菜などいくらでもあり、盗むはずはありません。財布も誰かが我が家に投げ込んだもの。なぜ施設に入所しなければならなかったのか、いまだにわかりません。福祉事務所が入所決定を下し、従わざるをえませんでした」