介護報酬は全国一律ではなく、最低賃金と同じく地域によって違い、都市部のほうが高い。地方は報酬単価が低いのに移動時間が長くガソリン代がかかるという矛盾もある。このままいくと、経済的に裕福な人しか在宅介護を受けられなくなる。そんな時代はもう目の前だと、伊藤さんも言う。
「ヘルパーは本来、とてもやりがいがある仕事です。『もう帰っちゃうの?』と頼りにされもするし、人の命を救う場面もある。けれど今のままでは、やりがいどころではありません。制度の不備のため、虐待に近いところまできてしまっている。
でも逆に考えると今が岐路で、多くの人に関心を持ってもらえるチャンスかもしれません。私たちは現場がこんなにひどいと裁判所やメディアで訴えていますが、本来この仕事は人間とは何かを教えてくれる、すばらしい仕事だということも伝えたいんです」
藤原さんが解決策にも言及する。「賃金問題の解決として、ただ賃上げを要求すると利用者さんに負担が行ってしまう。そうではなく国が補助金をつけるなどやりようはあると思うんです」。さらに「人の暮らしの中にある《精神的なこと》も見落としてほしくない」と訴える。
「私たちは、『ケアは社会の柱』であると考えています。そもそもケアというのは、介護のみならず、医療、教育、保育も含まれる。とくに介護は、暮らしという生活文化を通して人を理解し、相手も安心してケアを受けられるものであるはず―私たちはそこに向けて仕事をしています。
人は人間らしさを失っては生きていけないのですから、《ケア》という仕事について、精神的な評価や理解が抜け落ちていることも問題だと感じます。社会のどんな立場の人であっても、自分自身にかかわることとして関心を持っていただきたいと思います」
本人であれ、家族であれ、介護やケアとまったく無縁の生涯を送る人はあまりいないはずだ。男尊女卑や性的役割分担の色濃く残る日本では、家事や育児、介護がシャドウワークとして一段低いもののように見られてきた。その延長線上でヘルパーの仕事が正当に評価されていない部分もある。だがその無知・無関心は、介護難民という形でやがて自分自身に跳ね返ってくるのではないか。
今回のヘルパー裁判は昨年の11月、東京地方裁判所で原告の請求が棄却された。だが3人は控訴し、5月31日には東京高裁で2度目の口頭弁論が開かれる。筆者も介護家族を抱える一人として、傍聴に行きたいと思っている。