イラスト:川村易

まず将軍の権力を回復させることを目指した信長

ある高校の教科書(『詳説日本史B』山川出版社 2022年)では、織田信長が掲げた「天下」の印判について、こんな補足説明がされています。

「当時の『天下』には、世界・全国という意味のほか、畿内を指す用法もあった。信長の用いた『天下』を後者の意とみる説もある」。

畿内とは、大和、山城、摂津、河内、和泉の5ヵ国。

近年、信長の用いた「天下布武」は、全国統一を意味する言葉ではなく、足利義昭を奉じて上洛し、畿内に室町幕府の将軍政治を復活させるという意味に解釈すべきだという説が強くなっています。つまり、信長はまずは将軍の権力を回復させることを目指した、というわけです。

しかし義昭を奉ってもなかなか畿内が平和にならなかったため、信長は仕方なく周辺の敵を次々と平らげ、その過程で将軍とも対立するようになってしまった。結果的に「天下」が「全国」を意味するように拡大されていった、というのです。

 

《さらに詳しく》

以前は信長の専売特許のように言われていた「楽市楽座」も、六角氏をはじめ各地の戦国大名が先に行っていたことがわかってきました。信長は伝統的な既得権集団「座」も積極的に保護しています。座を解体し、政策的にも先進的な「革命児」だったというかつての教科書の記述は、今や古くなりつつあるのです。

また、長篠の戦いでは織田・徳川軍の鉄砲隊が代わる代わる撃つ「三段撃ち」で武田勢を撃退したと言われてきましたが、この事実が書かれた一次史料はありませんし、現実的に不可能なので、三段撃ちはなかったという説が有力です。