恩師のつてで勤めたのは、鍋や釜を扱う大きな問屋。早口の大阪弁が飛び交って、そりゃ賑やかで威勢がよかった。大阪の商売人は「お客が来たらまず笑わせろ」ですからね(笑)。丁稚修業に来ていた若い衆はそういう軽妙なやりとりから鍛えられていくのね。

モタモタしていると「客待っとんねんぞ」と怒鳴られたけど、みんな気性がさっぱりしているから、こっちも気にしない。「はーい、すんまへーん」と機嫌よう叱られていました。だれもが当意即妙。

毎日頭から衝撃を浴びせかけられる感じでしたから、ぼさーっとした子でも一瞬にして変わってしまいますよ。よく環境が人をつくると言いますが、あれです。紹介してくれた先生の顔を潰すわけにいきませんから、泣いて帰るわけにはいかないし、それこそ必死で何でも覚えました。やりたい仕事ではなかったけれど、なによりも「元気は伝染する」ということを身をもって知ったのです。

 

夢が実現したのは、回り道したから

弟と妹が学校を出て、母が西宮市役所に勤めるようになったのをきっかけに、私は7年間勤めた会社をやめて小説修業を始めます。小説家になれるとだれかが保証してくれたわけでも、自分の中に確証があったわけでもないの。だけど、どうしても小説を書いて身を立てたいという思いがふくらむ一方だった。それで踏ん切りをつけて飛び込みました。「えいっ」と飛び込んでみると、人生おもしろくなることもあるのね。

せっせと懸賞小説に応募し、28歳で小説家としてデビューしたけど、「ほんまにやっていけるのかなー。やっていかなしゃーないしなあ」と友達に弱音を吐いたら、「ナベちゃんやったら大丈夫や。言うだけちゃうでェ、ホンマやで」と言ってくれてね。

どんなときでも、弱音を吐き出せる相手がいるというのはありがたい。もっとも、それが出るのはまだ甘い環境にいるからで、ほんとうに大変な場で生きている人は、弱音や愚痴を出している暇も心の余裕もないでしょう。

考えてみたら、私はお勤めしている間に、精彩に富んだ大阪弁の軽妙な会話や、人間の機微について勉強させてもらっていたんです。あの土台があったから、長い間、小説を書いてこられた。学校を出た直後に「小説家になる」と一直線に頑張っていたとしても、おそらく書き続けることはできなかったでしょう。回り道もしてみるもんですね。

結婚も大きな転機の一つでした。結婚したのは37歳で、当時としては遅いほうだし、いまで言う事実婚。家事を母に任せて執筆に専念できるようになったころだったので、実は結婚なんて考えたこともなかった。

それなのに、なんで? と思うでしょう。相手の川野純夫さん(通称「カモカのおっちゃん」)は4つ年上の医師。4人の子持ちのうえ、両親や弟妹も同居していました。まあ、いまの女の子たちの基準で言うたら、とても結婚の対象にはなりませんわね。(笑)