撮影:霜越春樹  
6月6日に亡くなられた作家の田辺聖子さん。本日(9月25日)東京で「お別れの会」が開かれました。田辺さんが生みだしてきた、関西の女たちのみずみずしい物語や、日本の古典に材をとった作品群は、いまも読むひとを惹きつけてやみません。少女時代に敗戦を迎え、価値観を覆された田辺さんがその後の人生を生きるうえで大切にしてきたこととは──。東日本大震災直後の2011年7月に本誌に掲載されたインタビューを再録します。(撮影=霜越春樹 構成=佐藤万作子)

「元気は伝染する」と学んだ多感な少女時代

世の中こんな状況ですから、どん詰まりに追い込まれていると感じている人が少なくないでしょう。天災や人災、または大きな哀しみが降りかかってきて落ち込んでいるときに、「ああだ、こうだ」と言っても響くものではありません。

結局、どうするかはその人の心の中にしかないんです。ボロボロになった穴を自分で埋め立てていくことで、やがて足元が固まっていきますから。きっとその上に“よきもの”が繋がっていくんじゃないかしら。転機には、無意識に積み重ねてきたその人らしさ、「個性」が出るような気がします。

私はいま83歳ですが、長く生きているとほんとうにいろんなことがあるものですよ。自分で望んだこともあれば、考えもしなかったことが突然自分の身に降りかかってきたこともある。いくつかの出来事は、いまもいきいきと覚えています。

子ども心に「小説家になりたいなあ」と思うようになったのは、小学校高学年のころでした。小さいときから本を読むのが大好きで、子ども向けの本では満足できなくて、うちの写真館(注・田辺さんの生家は写真館を営んでいた)に修業に来ている若い衆が買っている雑誌なんかも読んでいました。

でも、幸せなお嬢さんの時代は長くは続かなかった。日本中が戦争に巻き込まれていき、1945年6月1日の大阪大空襲で自宅を兼ねた写真館は焼失。軍国少女だったから8月15日の敗戦はショックでしたよ。国家が転覆したわけですからね。

その年の暮れには、まだ若かった父が亡くなりました。それこそショックを受けなかったと言えば嘘になっちゃう。当時、私は東大阪の樟蔭女子専門学校国文科の学生で、弟と妹がいました。学校をやめて働くつもりでいたら、母が「卒業だけはしなさい」と。

戦前はゆったり暮らしていた母だったのに、私たちきょうだいを育てるために仕事を選ばず働いて……焼け野原で奮闘する母を見ながら、私は「女がこんな目に遭わないといけないのか」と思った。敗戦と父の死をきっかけに、私も精神の持ち方が少し変わってきて、「ぼんやりしてられへん。私がしっかりせんと」と切り替わりました。「小説家になる」という夢に向かって進むことなど考えられなかったわ。