堀威夫さんから「君で勝負したい」と

デビューしたのは18歳の時ですね。ジャズ喫茶で歌っていた私に、ホリプロの大阪支社長が目をつけて、ほどなく創業者の堀威夫さんから「君で勝負したい」と言われました。それで、大阪から右も左もわからない東京にやってきました。当時の芸能界に、私のような低音ボイスで背の高い女性歌手は他にいなかったから、奇異な目でも見られたし、当時はよくイジメられましたね。

ある女性歌手からは、「男と一緒の楽屋にしてほしくない」とか言われたりしましたね。メイク用品を全部テーブルから落とされていたり、私物に落書きされたり、今では考えられないような陰湿なイジメを受けていました。悔しかったけど、自分が芸能界を長く続けられたら、こういう先輩には絶対ならないようにしようと思いました。実際、私をイジメてきた人たちはみんな芸能界で生き残ってないですね(笑)。意地悪なんてするもんじゃないですよ。

お給料も安かったので、生活するのも大変でした。マネージャーにご馳走してもらったり、車で送ってもらったりを頼みこんでいました。でも中にはケチでいけずな人もいてね、「お前なんか絶対売れないから」って言ってパン一つ奢ってくれなかった人もいました。だから私が営業で稼げるようになってきた時に仕返ししてやろうと思って、彼が管理していた地方営業の売上金がパンパンに入ったアタッシュケースを、帰りの食事処で隠してやったんです。そしたら警察を呼ばれて、現場検証が始まっちゃったんです。指紋取ったりしだしたもんだから、私も言い出すきっかけを失っちゃいました。(笑)

すっかりしょげ返った彼が私に、「もう帰っていて良いですよ」って言うから、「座布団の下に隠してある」って教えてあげたんです。そしたら彼、泣いてしまいました(笑)私も警察に怒られたし、あれは流石にやりすぎでしたね。(笑)

デビュー曲の『星空の孤独』は売れなかったんですけど、2枚目に出した『どしゃぶりの雨の中で』という曲がヒットして、クラブ巡りもしました。でも持ち歌がほとんどないから、洋楽の『Blue Suede Shoes』や『Kansas City』とかを歌うしかなかったんです。ところが、お客様が「日本語の歌を歌え!」なんて野次を飛ばしてくるんですよ。司会者もいなかったから、自分で「看板ちゃんと見て入ってこい!バカヤロー!」って追い返してましたね。昔は本当に苦労しました。(笑)

あの頃は、日々悔しくて泣いた夜もあったけど、誰にも弱音なんか吐けずにいましたね。家族もいろいろ大変だったので、私が心配をかけるわけにはいかなかったんです。初月給をいただいた時から、実家にはずっと仕送りをしていました。私は学校を出られなかったけれど、弟たちは大学を出て、運転免許もちゃんと取ってほしかったですからね。

兄妹は4人いますけど、私が唯一の娘でした。親は女の子らしい子がよかったんでしょうけど、あいにくでしたね(笑)。父は本当に厳しかったです。でも、今となってはいいんです。願いが一つ叶うなら、両親に会って「産んでくれてありがとう」って伝えたいですね。

マネージャーにも感謝ですね。コンサートまで体力をつけるために、一緒に目黒川沿いのウォーキングに付き合ってくれていますから。前はよく料理をすると、それをマネージャーやスタッフにご馳走していたのですが、今は目が悪くて包丁が上手く使えないんです。でもこの前はスライサーを使ったりして、椎茸の煮物とか錦糸卵とか、結構豪勢な具材の素麺を振る舞いました。素麺も具材次第でちょっと贅沢になりますからね。

料理をするのは仕事と全然違う頭を使うから、息抜きになるんです。人にご馳走するのは大好きですね。不良のアッコだったからこそ、お世話になった人には絶対にお返しできる人間でありたいって思うんです。頭の片隅でいつも「アコ、“和田アキ子”を大事にせなあかんで、人を裏切ったらあかんよ、ちゃんとせなあかんよ」っていつも自分に言っています。こう見えて新聞に載るような悪いことは一度もしなかったですからね。(笑)

私の元気の秘訣は、馬鹿のままでいることですね。みんなのことを、自分より賢いと思って、自分が馬鹿だと思ってると何でも聞けるし、いつまでも自然体でいられます。歌でもそうですね。だからこそ、歌の上手い人を見ると、たとえ若い人でも「うま過ぎる!」って嫉妬して、負けたくない!と自分に腹が立ってくるんです。

長い間、芸能界にいていろんなことを見てきましたけど、歌うときは緊張するし、気持ちは55年前とあんまり変わってない私です(笑)。ぜひ、全国のホールでお会いしましょう!

「ラストホールツアー」のポスターの前で微笑む和田さん(撮影◎本社 奥西義和)