自分の足で立てない日があってもいい

本当は大丈夫じゃないのに、大丈夫なふりをしてしまう。泣いてしまえばいいのに、笑ってしまう。そういう人は、想像以上にたくさんいる。人の好意に甘えるのは、たしかにどこか心苦しい。でも、甘えられる相手がいるのなら、時には甘えて休んでもいいのではないだろうか。もちろん、限度はある。人が持つキャパシティはそれぞれ異なるし、相手が潰れるほど寄りかかってしまうのも違う。ただ、「誰にも頼らず、どんなときも自分の足で立たねばならない」と思い込み過ぎると、生きるのが苦しくなる。

当時の私には、頼れる人がいなかった。そもそも、「人に頼る」という発想がなかった。だから余計にそう思う。今、私はたくさんの人に支えられて生きている。頼ることもあれば、頼られることもある。そういう相手がいるだけで、昔よりずいぶんと息がしやすくなった。

24時間、365日、自分の足で立てなくてもいい。誰かに寄りかかる時間があってもいい。『キッチン』は、私にそのことを教えてくれた。

両親は、私が傷つこうが苦しもうが、意に介さない人たちだった。だから、傷ついている人にどんな言葉をかければいいのか、どんな態度で接すればいいのか、わからなかった。そういうことを私に教えてくれたのは、いつだって“物語”だった。

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泣けば「泣くな」と殴られ、泣かなければ「反省が足りない」と蹴られる。そんな環境で育った私に、「泣きたいときは泣いていいんだよ」と、「辛いときは周りを頼っていいんだよ」と、そう伝えてくれたえり子さんと雄一には、今でも感謝している。

私は大丈夫そうじゃない人には、極力「大丈夫?」と聞かないようにしている。経験上、大丈夫じゃないのに反射的に「大丈夫」と答えてしまうことを知っているからだ。

「何かしてほしいことある?」

そう聞くと、「してほしいこと」を伝えてくれる人が多いように思う。あくまでも私個人の体感なので、正確なソースがあるわけじゃない。ただ、もしも自分なら、よほど親しい人でもない限り、「大丈夫じゃない」とは言えない。

「大丈夫じゃない日」は、誰にでも訪れる。世の中に転がっている不幸や理不尽は、案外多いものだ。世界を悲観的に見る必要はまったくないが、“誰かの痛みが、いつか自分の痛みになるかもしれない”という想像力を手放さずにいたい。被害者と加害者の境界線が曖昧なのと同じように、マイノリティとマジョリティの境界線も、案外曖昧なものだから。