「ないものはない」現実を受け入れる覚悟
何度も読み返す物語には、例外なく「そこまで辿り着きたい」と思わせる一文がある。そこに行き着く頃、私の体はすっかり熱を帯びていた。お風呂で「のぼせる」の意味を体感として理解した、はじめての夜だった。
“もっともっと大きくなり、いろんなことがあって、何度も底まで沈み込む。何度も苦しみ何度でもカムバックする。負けはしない。力は抜かない。”
何度も底まで沈んで、何度も苦しんで、もがいて足掻いて今日この日まで辿り着いた。カムバックしては叩き落とされ、這い上がっては沈められ、それでも負けじと歯を食いしばってきた。
負けはしない。力は抜かない。
何らかの局面に立たされるたび、私は今でも呪文のようにこの言葉を唱える。
『キッチン』の終盤、えり子さんがみかげに言う。
“「まあね、でも人生は本当にいっぺん絶望しないと、そこで本当に捨てらんないのは自分のどこなのかをわかんないと、本当に楽しいことがなにかわかんないうちに大っきくなっちゃうと思うの。あたしは、よかったわ。」”
「よかった」と言えるほど、私はまだ強くなれない。こんな絶望は知りたくなかったし、みんなが当然のように持っているものを捨てるしかない現実はひたすらに痛い。それでも、えり子さんが言うように、「本当に捨てられないもの」や「本当に楽しいこと」がくっきり浮き上がる感覚は、たしかにある。持っているものが少ないぶん、手元にあるものに対し、かけがえのない愛おしさを感じる。例えば、お風呂で本を読める幸せ。例えば、安心して眠れる夜。それらを宝ものだと感じることが「正しい」とは思わないが、何事にも感謝できない人生は、それはそれで悲しい。
悲しいかな、どんなに足掻いても「ないものはない」。私が親に愛される日は永遠に訪れないし、彼らが私に真の意味で謝罪する日もこない。毎年やってくる「母の日」や「父の日」に、温かい気持ちで贈り物を選ぶ日もこなければ、孫を連れて帰る未来もない。私の身にどれほどのことが起ころうとも、生きるか死ぬかの瀬戸際に立たされようとも、彼らは私を想わないし、心配しない。私はその“事実”を受け入れて、生きていかねばならない。
親を許すつもりはないし、彼らが死んでも私は葬儀には出ない。ただ、変えられない事実を絶望と共に受け入れることで、私はようやくスタートラインに立てた。
この日のエピソードはほんの序章に過ぎない。安心して暮らせる場所を手にした途端に襲いかかってきた後遺症の恐ろしさも、閉鎖病棟で受ける酷い扱いも、まだ何も知らない私の、とある日の思い出だ。でも、だからこそ忘れたくない。あの夜ちゃんと泣けたから、飲み込めた現実がある。良い日も、悪い日も、すべて込みで今の私だ。
いつの日か自分も、雄一やえり子さんのように、誰かにとっての止まり木になれたらいい。体を振り絞るようにして泣いたあと、そう思った夜のことを、私はこの先も、ちゃんと覚えていたい。
※引用箇所は全て、吉本ばなな氏著作『キッチン』本文より引用しております。