現在にも通底する人間批評

――『シニア右翼』では、『はだしのゲン』の象徴的な場面を引用していますね。戦前に翼賛体制を賛美しながらも、戦後に手のひらを返して平和を説く鮫島伝次郎に対して、その矛盾を主人公の中岡元が鋭く衝く場面です。あらためてお尋ねしますが、なぜこの場面に着目されたのでしょうか。

鮫島は、ゲンの住む広島市の舟入本町というところで町内会会長をやっているという設定です。鮫島は、反戦平和主義であるゲンの父と中岡家を指弾する急先鋒で、戦中日本人の封建的で抑圧的で翼賛的な中産階級の象徴として描かれます。

作中で鮫島の家業は明らかにされていませんが、まず地域の地主と言ったところでしょうか。かといってインテリという訳でもなさそうだし、一方でいわゆる「ブルーカラー」でもない中産階級です。

丸山眞男はこのようなエリートでも下層でもない中産階級が、戦時中の翼賛体制を支えた主力だとして彼らを「中間階級第一類」と名づけました。つまり地域における主導的な役割であり、社会の下士官(末端の一兵卒ではない)というわけです。これに対して第二類は、戦争を消極的傍観、あるいはこれまた消極的に嫌悪していたインテリとして位置づけます。この分類の評価はともかく、鮫島はまさに絵にかいたような中間階級第一類です。

鮫島は、8月6日の原爆の日、それまでさんざん「非国民」と罵っていたゲンに対して「中岡のぼっちゃん」とまで呼んで助命を求めます。原爆の爆風で胴体が家の柱に挟まっていたんですね。ゲンの助力で鮫島は助かるのですが、戦後、鮫島は広島市議会議員として何食わぬ顔で立候補演説をしているのをゲンは目撃するのです。あれだけ体制側だった鮫島が、自らを「平和の戦士」と名乗り、「わたくしは戦争反対を強く叫びとおしておりました」などと、嘘八百を並べるわけです。これにゲンは激怒するのですが、これは鮫島個人というよりも、標準的な日本人全体を捉えた本質であると思う。

戦前は鬼畜米英と言っていたのに、戦後はそれを無かったことにして「平和の戦士」などと嘘をつく。これこそ歴史修正主義なんですが、多かれ少なかれ、戦前の体制にいた人々は戦後の「逆コース」でまたぞろ政財官に返り咲きましたから、その魂魄は鮫島と似たり寄ったりかなと思う。つまりなんの価値観も、信念も、理念も持っておらず、「その時、その都度にあって、最も自分にとって利益のある価値観や体制にすり寄っていく」。そういったある種の日本人の醜悪さを凝縮したのが鮫島です。

もしかしたら鮫島は元々軍国主義者ですらなかったのではないか。「今だけ、金だけ、自分だけ」。それのみを考えていたからこそ、簡単に逆のことを言うわけです。

今でもいますよね。「体制に阿(おもね)った方がお得なんだ」と言わんばかりに、微温的に権力を擁護して日銭を稼いだり、権力との距離をカードにどこかの大学の教員やシンクタンクの役員になったり、あるいは同様に、権力との近さを匂わせて自然エネルギーで儲けようとしたり。こういう連中は全部鮫島ですよね。ゲンはこの醜さが許せないんですね。醜いというか卑小であり、それが故に無辜(むこ)の犠牲者が何百万人も出た。で、その悲劇が自分の責であるのに反省するどころか最初からなかったことにしている。そのことが許せないから、中沢先生に仮託されたゲンが、戦後の鮫島の「変節」に最も激烈な怒りの感情を表すのですね。現在にも通底する人間批評と思います。