パーキンソン病の診断を受けた当時の葛藤

樋口さんが体調に異変を感じたのは、2007年の頃だった。ギターが弾きづらいなどの症状に悩まされながらも活動を続けている最中、不調の原因がパーキンソン病であったことが判明。奇しくも、前年に大ヒットした曲「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」は、年老いて体がいうことをきかなくなった親から我が子への想いを綴った詩が共感を呼んでいた。病名を公表するかも含めて、当時は大きな葛藤を抱えていたと語る。

症状としては、最初は肩甲骨が熱くて重くて、腕を上げていられなくなっちゃったんですよ。それで四十肩みたいなものだろうと思って、近くの整体に行きました。当時、僕はパーキンソン病の知識がなかったし、その可能性を考えもしなかったので。でも、そのうち足も動かなくなってきて。体全体に異変を感じはじめた時、これは命令系統のトラブルじゃないかと思いはじめました。体の不調が続いているのに、なかなかその正体が姿を現してくれない。それが一番嫌でしたね。

「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」の歌詞の元となった差出人不明のメールに出会ったのは、ギターを辛うじて弾けていて、発声にも影響がなかった頃です。病気の診断を受けて最初に感じたのは、この曲が「自分のことを歌っている」と思われるかもしれない、という不安でした。自身のエピソードを歌った曲として評判が広まり、曲が浸透していくのは正直あまり本意ではなくて。僕にとってあの歌は、介護のことをテーマにしたというよりは、つながっていく命ーー輪廻転生のような壮大なものを表現した曲だったので。

送られてきた詩をはじめて見た時、僕は気持ちが毛羽立っていたんですよ。子どもと取るに足らないことで喧嘩して、顔を引っかかれてしまって。ちょうどそんな時に、友人でもある角智織さんにお会いする用事があって伺ったところ、「こんな詩が今日ブラジルから届いたんですよ」と言われて。その詩を読んだら、自分が幼い頃に親から与えられた愛情と、親になった自分と我が子とのあれこれが一つのエピソードみたいに組み込まれていくのを感じました。

そうやって生まれた曲がレコード大賞優秀作品賞を受賞して、注目を集めていく中でのパーキンソン病診断。「神様っていいシナリオ考えるな」と思いましたね。自分の歌を聴いてもらえる機会が一番増える時に、自分のコンディションが崩れていき歌えなくなる。こんなシナリオ、なかなか考えつかないよなって。

ピンチとチャンスが同時に訪れたあの当時は、スタッフの方々にもご迷惑をおかけしました。どうにか体をほぐそうとテレビ局の周りをぐるっと走っては、汗だくで帰ってきてメイクさんにメイク直ししてもらったり。本当に綱渡りの日々でしたね。

病気を世間に公表することは、はじめは全く考えていませんでした。弱みを世間に見せることに抵抗があったし、「パーキンソン病のミュージシャン」というレッテルを貼られるのも怖かった。でも、ある人に「公表したほうがいい」と言われて。「この仕事をしていて病気になったのなら、それは役割の一つでもあると思う。それに、公表することで生まれる新たな出会いが君を救うことになるかもしれない」と。その言葉を聞いて、自分でもよくよく考えた末に、ドキュメンタリー番組内で病名を公表しました。

公表すると、「隠す」というストレスがなくなるので、より自然に振る舞えるようになりました。でも、組織の中で働いている人は、「大きなプロジェクトから外されるんじゃないか」とか、悲観的な未来予測がどんどん出てくると思う。それで言えなくなって、困ったり迷ったりしている人が多いんじゃないかな。

僕の場合は、家族もみんな自然に病気のことを受けとめてくれたのでありがたかったですね。進行した場合はどうなるかわからないけど、子どもたちも今のところは何もないように接してくれていて。僕は気を遣われることに気を遣うタイプなので、すごく助かっています。