(構成◎碧月はる 撮影◎本社 奥西義和)
デビュー30周年を迎える音楽活動の原点
ー代表曲「手紙〜親愛なる子供たちへ〜」をはじめ、数々の楽曲を手掛けてきた樋口了一さんは、今年(2023年)でデビュー30周年を迎える。もともとは堅い職業を目指していた樋口さんが、音楽の道に足を踏み入れた原点とは。
音楽の仕事をしようと決めたのは、中学2年の時でした。故郷の熊本で、ビートルズの3本立ての映画が公開されて、最初の1本目が『HELP』という映画だったんです。その映画の冒頭が、演奏シーンからはじまるんですよ。あの映像を観た時の音楽体験を超えるものには、未だ出会っていません。
それまでは、新聞記者や弁護士など、わりと堅めの言葉を扱う職業を目指していたんです。でも、あの映画に出会った瞬間、「この人たちみたいになりたい」と思いました。子どもがウルトラマンに憧れる感覚と同じですね。(笑)
うちの父親は県庁職員で、“安定こそが命”という価値観の人でした。なので、僕の大幅な進路変更は、父にとって受け入れ難いものだったようです。一時期、僕はいないものとして扱われていましたから。「うちに息子はいません」みたいな。
しかし、父が心配した通り、アーティストの道は簡単ではなくて。上京したのはいいものの、なかなか芽が出ず、ずっとバイトで生計を立てていました。それで、27歳くらいの頃に、音楽の道を一度は諦めようと思ったんです。それで、定職に就くために当時需要が多かった不動産宅建主任者の資格を取りました。次に司法書士の勉強をはじめたんですけど、その矢先にプロデューサーから電話があって、「君のデモテープを聴いたんだけど、もっと曲を聴かせてほしい」と。音楽をやめようと思った時に、向こうからやってきた。不思議なもんだなと思いました。
プロデューサーが熊本の実家まで足を運んでくれて、僕との契約の話を両親にもしてくれたことで、それまで反対していた父も少し安心したようです。デビュー後に、『水曜どうでしょう』のテーマソングがヒットして、さまざまなアーティストの方に楽曲を提供する機会にも恵まれました。本当に、ご恩とご縁で人と仕事がつながっていった感じです。
音楽に関してはビートルズが師匠なので、すごくカラフルな曲が好きなんですよ。プロになってからも、ビートルズのレコーディング手法を勉強したり、使っていた機材を調べたりしましたね。
正直なところ、今年でデビュー30周年を迎える感慨をかみ締めるというよりは、「うわ、もう30年経っちゃった」という気持ちです。