劇団民藝の稽古場にて。並ぶ木製の机は劇団創設当初からのものだそう

唯一の気分転換が海外旅行で、私や妹が同行することもありましたが、一流ホテルに泊まり、おいしいものを食べて、高い洋服をバンバン買う。亡くなった後、大量の洋服が残されており、まだ値札がついたままのものもありました。

海外では、よく一緒に美術館巡りもしましたね。やはり絵が好きだったのでしょう。奈良岡さんの父親は洋画家(奈良岡正夫さん)で、本人も女子美術専門学校卒業。在学中に民藝の前身である劇団の研究生になり、父親から「絵の道に進むか芝居かどちらかにしろ」と言われ、芝居を選んだところ絵具箱を取り上げられた。それが忘れられず、「あの絵具箱、どこに行ったかしら」と言っていました。

この20年ほどは、石井ふく子さん、女優の京マチ子さん(19年死去)、若尾文子さんと同じマンションで暮らしていました。石井さんと共同で資料置き場として小さな部屋も借りていましたが、解約することになり──片づけを命じられた私が、何を残して何を処分するか聞くと、「わからないッ!もう見ないで全部捨ててくださいッ」。

書き込みがある台本などは貴重な資料なので、劇団に運び込みました。その余勢をかって自宅の整理をしようとしたら、「死んでからにして。私が死んだら勝手にさらせ」。生きている間に終活なんてする気はさらさらなかったようです。

とにかく常に、目の前の芝居のことしか考えていない。90を過ぎても、明け方まで台本と格闘していました。ただ、晩年は夜更かしをすると朝なかなか起きられなくて──22年の『ラヴ・レターズ』は昼公演なので、12時には劇場に入らなくてはいけない。

生活のリズムをつくってもらおうと、本番10日前くらいから毎朝9時にマンションに行き、「起きてくださ~い。コーヒーと朝ごはん持ってきました」と叩き起こしました。

たぶん私は、「奈良岡朋子はいい女優である」という評価を崩したくなかったのだと思います。だから万全の体調でいてほしかった。それは姪としてというよりも、同じ劇団の後輩として、彼女を演出してきた人間としての思いでした。