台湾ラグビーの父
日本代表初のテストマッチもこの遠征中に行われた。
9月24日、日本代表はカナダBC州代表と対戦する。結果は、互いにトライを1本ずつ取り合って3対3の引き分け。柯は13番で先発出場していた。
ルーツにこだわらないラグビーの神髄を知った気がしたのは1934年2月、神宮競技場にオーストラリア学生選抜を迎えた4回目のテストマッチだ。柯が日本代表の主将をつとめていたのである。
戦後、故郷に帰国した彼は、台湾ラグビー協会を設立。台湾でラグビーの普及に尽力して「台湾ラグビーの父」と慕われた。多様なルーツを持つ選手たちが、一緒になってチームをつくってきた日本代表の原点とも呼べるプレーヤーだったのである。
柯がはじめて日本代表となってから89年の歳月が流れている。
私がラグビー日本代表となった海外出身の選手たちを訪ねはじめたのは、ラグビーW杯日本大会が1年後に迫った2018年秋のことである。
※本稿は、『国境を越えたスクラム-ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(中央公論新社)の一部を再編集したものです。
『国境を越えたスクラム-ラグビー日本代表になった外国人選手たち』(著:山川徹/中央公論新社)
「何があっても日本以外の国の代表になるわけにはいかないと思った」。かつてリーチマイケルはそう語った。ラグビーは、代表選手の国籍を問わない。居住年数など一定の条件を満たせば、国籍と異なる国の代表としてプレーできる。多様なルーツを持つ選手たちは、なぜ「日本代表」となることを選んだのか。
異文化の地で道を拓いた外国人選手たち、そして彼らを受け入れたチームメイトと関係者の奮闘があってこそ、今の日本代表がある。その歴史は、多様な人々との共生をさぐる日本社会とも重なってみえる。それぞれのライフヒストリーと、秘められた熱い思いをたどる。