“みんなと同じように”できない

私が通っていたのは進学校だったため、同級生の多くは大学に通っていた。私の田舎には大学がない。だからみんな地元を離れ、ほとんどが県外に散り散りになっていた。学生時代、「友人」と呼べる人は何人かいた。でも、誰とも連絡を取らなかった。今の自分の状況をなんて説明していいかわからなかったし、そもそも大前提として、両親から受けている虐待の実態を知られたくなかった。

大学に通う。専門学校に通う。アルバイトをする。会社に勤める。みんなが当たり前にできていることが、私には何ひとつできない。父に「穀潰し」と言われても、反論さえできなかった。でも私は、父以上に母が恐ろしかった。

母は、私を連れてたびたび市内のデパートに出かけるようになった。家出をする前には考えられないことだったため、最初はひどく戸惑った。出かけるたび、母は私に服や化粧品を買い与えた。高価なものではなかったが、それまで兄弟のお下がりしか身につけたことのない私にとって、新品のそれらは眩しく映った。お礼を伝えると、母は微笑んで「いいのよ」と言った。デパートまでの道のりは、バスに乗れば10分程度。歩けば40〜50分ほどかかる。母はその道のりを、できる限り「歩いて」行きたがった。「引きこもってばかりいると運動不足になるから」という母の言葉を、途中までは素直に信じていた。でも、ある日ふいに気が付いた。顔見知りに会えた日の母の機嫌が、すこぶる良いことに。

歩く道のりが長ければ長いほど、顔見知りに会う頻度は高まる。誰かに会うたび、「気分転換させようと思って」と聞かれてもいないのに話す母に、多くの人が好意的な眼差しを向けた。娘の挫折に寄り添う、理解ある母親。それが、「学業成績優秀な娘の母親」の代わりとなる、彼女の新たな勲章だった。

真新しい服よりも、興味を持てない化粧品よりも、母からの「愛してる」がほしかった。でも、母が愛しているのは自分だけだった。周りから「いいお母さん」に見られることに必死な彼女は、私以外の人間を見るのに忙しくて、私を見る暇がなかったんだろう。

いつも何かに飢え、ひどく渇いている。その点において、私と母は同じだった。