地元の閉鎖病棟で入った保護室の実態

救急車のサイレンを聞いたような気がする。でも、それも定かではない。しっかりと意識を取り戻したとき、私は閉鎖病棟の保護室にいた。地元に一ヵ所しかない精神科病院の第三病棟。いわゆる「急性期病棟」と呼ばれるその場所は、家出中に入院していた病院よりもさらに劣悪な環境だった。

保護室は狭く、手が触れられる位置にポータブルトイレだけが置かれている。ドアの上部に鉄格子が嵌められており、その隙間が唯一外側を覗ける窓だった。細長く、狭い窓。見えるのは、無機質な壁。生き残ったのだと理解して絶望する暇もないほど、保護室の環境に絶望した。ナースコールは、押せば必ず誰かが来てくれるわけではない。排泄物の回収は、1日2回、朝夕の定刻のみ。自分の排泄物の臭いが充満する部屋に運ばれてくる食事トレーは、ベージュ色のプラスチック製だった。食事の味は、覚えていない。

人間扱いされない親元から逃げ出し、結局連れ戻され、またしても人間としては扱われず、人間をやめようと試みた。その結果、人間扱いされない病院で囚人のような扱いを受けている。その状況を、私はどこか他人事のように眺めていた。

“どうしてぼくはいつも人生を窓からのぞいているのだろう?”

繰り返し読んだ物語の一節が、ふと脳裏に浮かんだ。いつもにこにこ笑っている、チャーリイ・ゴードンとネズミのアルジャーノン。人々に指をさされ、笑われ、貶められ、それでも人に愛されたいと願い、「ふつうの人間として扱われること」を望んだ男性の物語。

保護室の隙間から聞こえてくるのは、悲鳴、怒声、泣き声、看護師同士の囁き声。こちらには理解できないだろうと思っている人間が話す言葉は、どこまでも残酷だ。差別と偏見にまみれた声を聞きながら、チャーリイの顔を思い浮かべていた。架空の物語だとしても、読んでいるうちに登場人物の顔は自然と浮き上がる。

“ひとはばかな人間がみんなと同じようにできないとおかしいとおもうのだろう”

チャーリイには、知的障害があった。そのため、人よりもできないことが多かった。彼の障害は先天性で、私のそれは後天性だ。障害の種類も違えば、生育環境も異なる。だが、「みんなと同じようにできない」ことが多いのは同じだった。チャーリイの言う通り、人は周りの人間が「自分と同じようにできない」ことにあまり寛容ではない。どうして、「できること」の数で価値が決められてしまうのだろう。生まれつき持っているもの、取り上げられたもの、元から持っていないもの、みんなそれぞれ違う。なのに、“みんな”と「同じであること」を求められる。

私のことを「死にたがり」と呼んでいた看護師は、おそらく「みんなと同じようにできる」側の人間だった。

「おかしいの」は、どっちなんだろう。

答えを知りたかった。そのために、私はもう一度チャーリイとアルジャーノンに会う必要があった。

※引用箇所は全て、ダニエル・キイス著作『アルジャーノンに花束を』本文より引用しております。