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通常の家庭では、親が子どもに道徳観念や“人として“大切なことを教える。だが、中には
歪んだ感情をぶつける相手に「我が子」を選ぶ親もいる。そういった場合、子どもは親に
必要なあれこれを教わることができない。私の親も、まさにそれだった。 だが、そんな
私に生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたものがある。それ
が、「本」という存在だった。 このエッセイは、本に救われながら生きてきた私=碧月はるの原体験でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

前回「貧困、後遺症、壊れゆく心。支援制度に辿りつけなかった私は、再び両親の元に引き戻された」はこちら

連れ戻されたあとも続いた心理的虐待

両親の虐待から逃れるために家出をしたものの、結局2年も経たずに実家に連れ戻された。後遺症による症状に悩まされ、安定的に働けないことから貧困に陥り、自傷行為や自殺未遂を繰り返す私が生きられる場所は、どこにもなかった。

私が家出をした理由は、地元では受験ノイローゼと学校でのいじめが原因ということになっていた。たしかに受験のストレスは感じていたが、それは母親からの教育虐待が主原因であり、常に学年1位を維持することを強いられた結果である。また、当然ながら、いじめを理由に「家出をする」選択をしたわけじゃない。

事実は簡単に捻じ曲げられる。たとえそれが「虚偽」であっても、広く周知されてしまえば、その嘘は「事実」になる。私の両親は、いつもこういう手口で己の身を守ってきた。娘の私ではなく、自分たちの外聞だけが大切な彼らに対し、「お父さん」「お母さん」と呼ばなければならないことに憤りを覚えた。

家出をしたことで、功を奏した部分もある。身体への虐待と、父の性虐待が無くなったことだ。私が親に逆らって家出をするなど、彼らは想像もしていなかったのだろう。下手なことをすれば、何をしでかすかわからない。そんな不安を彼らの中に植え付けられたのは、身の安全を守るのに役立った。

しかし、守れたのは身体の安全のみで、心の平穏は壊されていく一方だった。母は、私の腕の傷から目をそらし続けた。父は、酒を飲むたびに私のことを「キチガイ」と呼んだ。姉や兄は心身共に健康で、何不自由ない生活を送っていたため、「私だけが生まれつきおかしかったのだ」と彼らは主張した。

「自分たちは3人とも同じように育てた。お前だけがそうなったんだから、原因はお前にある」

「ふざけるな」と叫びたかった。でも、どこかで「そうなのかもしれない」とも思った。両親が声高に主張する歪曲された事実を聞くたび、「おかしいのは自分なのかもしれない」と感じた。強く言われると、従わなければと思う。言い切られると、間違っているのは自分のほうだと思う。「Yes」以外の返事を許されない環境で育つと、人は容易くロボットになる。

愛情の伴わない子育ては、ただの“洗脳”だ。それなのに、近所の人たちからは「もうお母さんに心配かけるようなことしちゃだめよ」と言われる。私にはもう、未来が見えなかった。毎晩、明日がこなければいいのにと願った。でも、朝は当たり前の顔をして連日やってきた。この頃の私は、太陽を睨むのが癖になっていた。