できることは精一杯やったけれど

最期の時はあっけないものでした。痛みで寝られず、せん妄が少し出始めたので、医師がモルヒネの連続投与を決めて3日後のことです。ただうつろでも意識はあって、亡くなる前の晩まで会話ができました。

横浜に桜の開花宣言が出た翌々日の3月17日、私は朝4時40分に目が覚めました。夫を見ると、大きく息をしています。「ああ、今日も生きていてくれた」と安堵し、もう一回目をつぶりました。でも寝られず、5時15分に起きてカーテンを開けようと夫を見たら、顔つきが違います。すでに息をしていませんでした。私に見つからないよう、そっと逝ってしまった。それも彼らしいと思います。

亡くなってすぐ私の胸に去来したのは怒りでした。なぜ早く転院させなかったのか。なぜもっと快適に過ごさせてあげられなかったのか。なぜ死なせてしまったのか。そして、なぜ何も言い残してくれなかったのか。できることは精一杯やりました。でもなにか足りないのです。なぜなら私が不幸になったから。

葬儀の連絡のため、彼のスマホを開くと、下書きトレイに書きかけの私へのメールが残っていました。全文は私の宝物として胸にしまっておきますが、最初の一文はこうでした。

「えりか、病室から助け出してくれてありがとう」

私は、彼に残された最後の自由を取り戻してあげたのだ、とその時わかりました。病院で死にたくはなかった。僅かな時間でも2人で好きなように過ごせたことを、彼は感謝してくれました。

いまは彼の不在が寂しくて仕方ありません。2人でいた時間は過去にしかなく、もう新しく動くことはないのです。胸にぽっかり穴が開いたようなとか、体の半身をもぎ取られたような、という使い古された慣用句が、こんなにも私の気持ちを表しているものだとは思いもしませんでした。

いまでも毎日一度は泣いています。突然やってくる哀しみになすすべがありません。これから過ごすおひとりさまの時間をどうしたらよいか、頭を悩ませています。