彼が自宅に帰りたかった一番の理由は、音楽を聴くことでした。幼いころからの唯一の趣味が音楽鑑賞で、レコードだけでも1000枚ほど、CDになると数千枚単位のコレクションがあります。若いころはアメリカのロックやブルースを聴き、大学時代はブルーグラスバンドでマンドリンやフィドル、ベースを担当。
80年代はワールドミュージックにハマりました。アフリカ、南米、中米、アラブ諸国、東南アジア、ハワイ、沖縄……と興味は尽きることがなく、数人の同好の士とライブに行ったりイベントに参加したり。時には音楽を聴くためだけに海外旅行に行き、帰国時には膨大な数のCDを抱えてきました。
ベッドの上で、彼は四六時中スピーカーから音を出し、音楽を聴き続けました。朝起きて、前の晩に選んでおいた1枚をプレイヤーに入れ、その間に次のCDを選ぶ。私に何十枚かずつ運ばせて、その中のお気に入りを聴き、ライナーノーツを読み込んで蘊蓄を披露してくれました。
もっとこういう音源があるはずだ、と私に指示するのですが、膨大なコレクションから見つけ出すことができず、がっかりさせたことも一度や二度ではありません。それでもその姿は満足げでした。
訪れる看護師や医師、様子を気遣う医療相談員やケアマネ、訪問薬剤師まで「まるでカフェみたい」と一緒に音楽を聴きました。18日間で聴いたCDは、150枚を超えたと思います。最期に好んだのは、耳にやさしいボサノバやミュゼット、静かなギターのハワイアン、穏やかな女声ボーカルの作品でした。