私が悪い子というわけじゃなかった

いろいろなことがあった高校生活だったが、15歳のときに、全国から参加者が集まる宮日音楽コンクールで予選を通過。あすかさんのピアノへの思いに、さらに弾みがついた。そして本格的に音楽やピアノを学びたいと、猛勉強の末、あこがれだった宮崎大学教育文化学部の芸術文化コース(当時)へ進学を果たす。

ところが、新しい環境によるストレスからか、入学直後から過呼吸発作を繰り返すようになる。1ヵ月に一回だった発作は、やがて2、3日ごとに。自傷行為も繰り返され、ついには精神科病院に入院、鉄格子つきの保護室で1ヵ月以上過ごしたことも。大学は中退せざるをえなかった。

それでもピアノを学びたいという思いは強く、宮崎学園短期大学音楽科に長期履修生として通うことに。そうしたなか、短期留学ツアーに参加したウィーンの地で、過呼吸発作を起こす。救急搬送された現地の病院で初めて、「発達障害」と診断されたのだ。それが22歳のとき。

「今でこそ、発達障害という言葉をよく聞くようになりましたが、当時は耳にしたこともありませんでした」と恭子さん。

「生まれつきの障害なので治ることはないと言われたとき、私も夫も目の前が真っ暗に。私が悪かったのだろうか、この子の将来はどうなるのか、とさまざまな葛藤がありました。少しずつ現実を受け止めるうちに思ったのは、これまで発達障害とわからなかったために、あすかにはたくさんのつらい思いをさせてきたということ。幼少の頃から、ひとり悩んでいたことも知り、申し訳ない気持ちでいっぱいになりました。もっと早く障害に気づき、適切な対応をしていたら……後悔は尽きません」

奥は母親の恭子さん。高校教員をしながら、「発達障害の娘との30年間」というテーマで講演活動をしている(撮影=藤澤靖子)

 

一方、あすかさんの反応は、両親とはまったく異なるものだった。

「自分が発達障害と知って、私はほっとしました。ずっと、みんなと同じようにできていないことを感じていました。お友達をつくるのも、みんなはそうした勉強をちゃんとやっているのだと思って、図書館に教科書を探しに行ったこともあります。そんなふうに、まわりの人と同じようにできるよう一所懸命に頑張ったのに、私にはできない。ダメなのは自分のせいだと責めていたので、『障害があるんだよ』と言われて、自分の努力が足りなかったんじゃない。私が悪い子というわけじゃなかった。よかったと思いました」

あすかさんは、自分の障害を知って以降、前にも増してピアノに打ち込むようになる。パニックが引き起こした右足の粉砕骨折により、自分の足で自由に歩くことはできなくなったが、そうしたハンディにもかかわらず、大きなコンクールで賞を次々と獲得。自分の思いを込めた曲作りも行うなど、ピアニスト、音楽家としての活躍の場を広げていった。