松本潤さん演じる徳川家康がいかに戦国の世を生き抜き、天下統一を成し遂げたのかを古沢良太さんの脚本で巧みに描くNHK大河ドラマ『どうする家康』(総合、日曜午後8時ほか)。第38回「唐入り」で、次の狙いを朝鮮に定めた秀吉は、諸大名を肥前名護屋城に集めて出兵を命じる。朝鮮から連戦連勝という知らせが届き、ご満悦の秀吉だが、家康は苦戦を強いられているという情報を掴み――という話が展開しました。一方、従来の歴史学では、科学や物理に反しているにもかかわらず「結論」「通説」としてまかり通っているものが少なからずあると話すのが、著書『日本史サイエンス』シリーズがヒットしている播田安弘さん。播田さんからすると、関白・豊臣秀吉が二度にわたって行った朝鮮出兵には特に疑問が多いそうで――。
文禄の役・慶長の役
信長が進めた天下統一事業を継承した豊臣秀吉は、関白となって位人臣をきわめ、事実上の日本国王となりました。
彼の施策には、大名の私戦を禁じた惣無事令や刀狩りなど、国内には平和をもたらすものであったと評価されていますが、朝鮮に対しては二度の侵略戦争を行いました。
一度目は1592年の文禄の役(韓国では「壬辰倭乱」と呼ばれています)で、日本から朝鮮半島へ約16万の兵が送り込まれました。二度目は1597年の慶長の役(韓国での呼称は「丁酉倭乱」)で、日本は約14万人の兵を動員しました。
通算7年におよぶ日本と朝鮮、さらには朝鮮の宗主国である明をも巻き込んだ戦いは、それまでの東南アジア史で最大にして、当時の世界最大規模の戦争であり、多大な戦死者を出す凄惨きわまるものとなりました。
しかし結局、日本軍は戦果をあげられず、秀吉の死によって撤退を余儀なくされたのです。