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イメージ(写真提供◎Photo AC)
父親による性虐待、母親による過剰なしつけという名の虐待を受けながら育った碧月はるさん。家出をし中卒で働くも、後遺症による精神の不安定さから、なかなか自分の人生を生きることができない――。これは特殊な事例ではなく、安全なはずの「家」が実は危険な場所であり、外からはその被害が見えにくいという現状が日本にはある。
何度も生きるのをやめようと思いながら、彼女はどうやってサバイブしてきたのか?生きていく上で必要な道徳や理性、優しさや強さを教えてくれたのは「本」という存在だったという。このエッセイは、「本」に救われながら生きてきた彼女の回復の過程でもあり、作家の方々への感謝状でもある。

前回「還暦を過ぎても娘の体を求める父親。繰り返された性暴力で蘇った記憶により、次男の授乳時間が苦痛になった」はこちら

育児の忙しさで紛れた痛み

次男が生まれる前、実父から受けた性虐待の記憶を取り戻した。削除されたはずの記憶が蘇ったのは、還暦を過ぎても尚、娘の体を求める父の所業が起因となった。なぜ、私はこの人たちの娘なのだろう。痺れた頭で幾度その問いに向き合っても、答えは出ない。

次男が生まれても、私は里帰りをしなかった。長男の時同様、一人で産んで一人で育てた。元夫の仕事は変わらず多忙で、小学校に入学したての長男は相変わらず手がかかり、文字通り寝る間もなかった。誰かに頼ることなんて、とうの昔に諦めていた。「里帰りしないの?」と聞かれれば、「帰る家なんかない」と思いながら「親も忙しいから」と言い訳をした。虐待被害に遭ったのは私で、悪いのは私じゃなくて両親で、私が恥じることなど本来何もない。それなのに、事実を隠すたび、なぜか自分が悪いことをしているような気になった。

長男同様、次男もよく泣き、よく笑い、あまり眠らない子どもだった。周囲が驚くほどの体力を持ち合わせた息子たちは、容赦なく私を振り回した。同じ男の子を持つママたちでさえ、「これは大変だ……」と口を揃えて言う。それほどまでに息子たちは動きが激しく、片時も目を離せなかった。

怪我をさせないように。死なせないように。
ひたすらそれだけを考え、日夜走り回った。大変だったし、疲れたし、あの生活に戻りたいかと問われれば「二度とごめんだ」と思う。だが、あの当時の私にとって、目眩がするほどの忙しさこそが救いであった。

多忙であってもフラッシュバックは起きるし、悪夢も見るし、希死念慮はやまない。それでも、痛みが紛れる側面はたしかにあって、「気がつけば夜」という日常は、私を過去に引き戻す時間を確実に減らしてくれた。