
私の必殺技
職場に新しい人が入ってくる時期。人の顔と名前を覚えるのが苦手な私にとっては、恐怖の始まりだ。しかも困ったことに、逆に人からは覚えられやすいみたい。そのため、誰だかまったく思い出せない人と、知ったフリをしながら会話する技術を身につけた。
3年前の夏、知らない女性から「むらかみさん。お久しぶり」と声をかけられた。私は相手が誰だかまったく思い出せず。だがここで怯んではダメ。相手と同じテンションで「ホント、ホント。久しぶり」と返すのだ。すると相手は「リサちゃん、元気?」と来る。リサはうちの長女だ。「もう2児の母よ。そっちはどうなん」。
――そっちはどうなん。これが私の編み出した必殺技だ。「そっち」と聞くことで、ヒントを聞き出すのだ。「ああ、ユウコ。あの子結婚すらまだやもん。孫は遠いわ」「今時は結婚も出産もみんな急がんから、大丈夫やって」「そうは言うけど、親としては心配やわ」「ユウコちゃんなら心配ないよ」「そうだといいけどね。ありがと。リサちゃんによろしくね」。
近くで見ていた知り合いに、「誰かわからん人とよう話せるわ」と感心された。
この困った遺伝子は、下の娘のユカにも受け継がれたようで――。
彼女が幼稚園の頃、私が園にお迎えに行った日のこと。玄関前で赤ちゃんを抱っこした知らないママに向かって、ユカが5歳ながらにお愛想したのである。
「こんにちは。おばちゃんちの赤ちゃん、かわいい。お名前、何ていうの?」「ふみの、って言うのよ」「ふみのちゃん。かわいい。あ、カバン忘れた。取ってくる」
走り去る娘の後ろ姿を眺めながら、立派に成長したもんだ、と感慨にふけっていると、そのママに話しかけられた。「あの、ユカちゃんのママですか?」。
娘の名を知っている。まさか、私も知っている人か? わからない。体が強張る。
「ユカちゃん、本当にいい子で、何ヵ月も前から毎日あいさつしてくれるんです。そのたびにこの子のことかわいいって言ってくれて」
知っている人ではなさそうだ。安心していると、そのママは両手で赤ちゃんのおしりを優しくたたいて、一息置いて言った。
「でも、毎日この子の名前を聞くんです」
何も言えなかった私。ユカは今、結婚して上海にいる。私のように苦労していないだろうか。