97歳の今も、悩める人たちに優しいメッセージを届け続ける瀬戸内寂聴さん。瀬戸内さん自身も58年前は悩みの渦中にいました。「瀬戸内晴美」として文壇で華々しく活躍していた昭和30年代、妻子ある作家(文中の「J」=小田仁二郎)との8年にわたる恋愛に終止符を打とうとしていたのです。「J」への愛情と、文学への渇望に灼かれつつ生きた8年間の清算を綴った生々しい手記を公開します。

※本稿は、瀬戸内寂聴・著『笑って生ききる』の一部を、再編集したものです

〈1からつづく

内助の功をつくす妻になるのが夢であった

8年前、私と彼がめぐりあった時、両方とも最悪の絶望状態におちこんでいた。

すでに私は「世間を気にしない女」になっていた。というより、とっくに「世間の評判を落してしまった女」であった。貞淑な良妻賢母の座から一挙に不貞な悪女の座に堕ちて世間の道徳の枠からはじき出されてみると、そこには想像も出来なかったのん気さと自由があった。

けれどもまた「うるさい世間の目」の外の世界は、ともすれば、ずるずるとひきずりこまれるような虚無の淵が足元におとし穴をつくってもいた。

あらゆる自分の美徳の名や保証されていた社会的地位や、子供と引替えに自分で選んだ恋愛に、もののみごと惨めな失敗をとげたあとでは、私はもう虚無の泥沼にずるずるおちこんでいく自分をどうする力も持っていなかった。25歳の人妻が21歳の青年とした恋が、その女にとっては初恋だったといったら、こっけいだろうか。

夫とは見合結婚だった。厳格な県立高女でスパルタ式の教育を受けた私は、先生に気にいられる善良な優等生だった。御法度の男友達をつくるなど考えもしなかった。第一私は美しく生れあわせていなかった。女子大に入っても寮と教室を往復するだけの学生で、お茶をのむボーイフレンドもなかった。

きりょうの悪い娘を女子大に入れ、ますます婚期を失うはめにしたという世間の噂を苦にした母が必死に奔走してチャンスをつかんだ見合の席に、私は夏休みのある日、着なれない着物に苦しい帯をしめ、しとやかな娘らしく装って出席した。退屈な学校生活にもあきあきしていたし、日一日と色濃くなる戦争の匂いもいやだったし、北京に嫁げるという魅力もあって、私は出来るだけこの見合にパスしたいと望んでいた。

見合という形式が、男が女を選ぶ場であって、女が男を選ぶなど思いもかけない田舎の風習に、私は別に抵抗も感じない意識のない平凡な娘だった。私は見られて、うまく選ばれたいと、その時思っていただけだ。見合が成功した時、私はたちまち、その相手を、私が少女時代から描いていた理想の男性像に頭の中で仕立てあげてしまった。女子大の寮で私は北京の彼に毎日ラブレターばかり書いて暮した。自分の書く恋のことばに自分で酔い、私はこの幻の恋に陶酔した。