竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

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「いや、わたしが申し上げたいのは、先生はそういうお人だということです。妙に人を惹き付けてしまう。不思議なほどです」
「残念なことに、みんながみんな、あたしに現を抜かしてくれるわけじゃありません。大半の者は気持ちの隅にも引っ掛けやしませんよ。引っ掛けたとしても、胡散臭い医者だとかやたら背の高い一風変わった女だとか、そんなところです。でもまあ、ここは吉原ですからね。何でも有りですよ。どことなく変てこな、捩(ね)じくれた者が好きだと、そういうお人がいても、おかしかありませんね。あたしとしちゃあ、戸惑うばかりですが」
 平左衛門が軽やかな笑声を響かせる。
「なるほど、なるほど。先生が戸惑っているかどうかは別にして、何でも有りで何も無いのが吉原ですからな。いや、ただね、我々が先生に惹かれているのは事実です」
「ですから?」
「ですから、先生の来し方とやらが気になるのですよ」
 平左衛門は珍陀酒を飲み干した。玻璃の器の縁が僅かに光を弾く。
「安芸が伝えたと思いますが、数日前、羅生門河岸で男が一人、殺されました。胸と首を刺されて、路地の行き止まりで息絶えておりましたよ。客ではありません。“役者の治兵衛(じへい)”と名乗る半端者です。性根は腐っておりますが、顔だけは整った役者面をしておりました。その顔を得物にして、女に集(たか)っては金を巻き上げる。そういう輩です」
「治兵衛というのは、もしかしたら……」
「ええ『心中天の網島』の治兵衛を気取って付けた二つ名でしょう。本名は知りません。調べればすぐにわかりはしましょうが、わかったところで意味はありませんからな」
 半端者の本名など知ったことではない。
 平左衛門はそう言っているのだ。生きていようが殺されようが、一顧だにしない。いつもなら、そうするだろう。しかし、今回は違った。おゑんに半端者の通り名と事件のあらましを告げた。その話をしたくて、この隠れ茶屋に誘ったのだ。
「これも安芸がお耳に入れたかもしれませんが、その男、先生のことを探っておったようでしてな。主に美濃屋の女たちにあれこれ尋ねて回っていたようです」
 花魁付きの番頭新造だけではなかったわけか。
「先生、お心当たりがありますか」
「役者紛いの色男に探られる心当たりですか。ありませんね」
「“役者の治兵衛”って男については、どうです」
「今初めて、聞いた名です。出会ったこともないでしょう。これでも、一度会った人の顔はわりに覚えておけるんです。まして、色男となると忘れはしませんよ」
「ふむ」
 束の間、平左衛門の眼差しが宙を彷徨(さまよ)う。
「先生の身辺を探っておったのは、治兵衛だけではないと、こちらもご存じですな」
「へのへのもへじ、ですね」
「は? へのへのもへじ?」
 平左衛門が瞬きする。丸鶴屋の前で声を掛けてきた男をつるじが「へのへのもへじみたいに、すぐに忘れちゃう顔」と称したことまでは、さすがに耳に届いていなかったらしい。
 つるじの悪戯っぽい笑顔が浮かんで、口元が綻びそうになった。
「いえね、あまり人の記憶に残らないような、つまり、これといって目立つところのない、地味な男があたしのことを問うてきたと、花魁付きの禿が話してくれたんですよ。それやこれやで、花魁があたしのことを心配して、文をくれたわけです」
「うーん、“役者の治兵衛”と人の記憶に残らない地味男、二人して先生の周りを嗅ぎ回っていたわけですな。しかし、先生……」
「ええ、なぜ、吉原なんでしょうかね」
 おゑんの住処も生業(なりわい)の所在も、あの竹林の家だ。吉原ではない。大門の内に足を踏み入れ、尋常から外れた二、三の事件に関わり合いもしたけれど、あれらの事件にはそれなりにけりがついている。今さら蒸し返す者などいないだろう。何より、平左衛門たちによって、表に出ることなく、闇の中で全て片付けられていた。関わってくる誰かがいるとは考え難い。しかし、考え難いことが容易く起こるのも吉原……いや、世間なのだ。
「火種は吉原にあるということ、なんでしょうかねえ」
 おゑんも珍陀酒を飲み干す。舌に馴染んで、美味を感じる。
「そうですなあ。先生と吉原の関わり合いから火が出たとなると、黙って見ているわけにもいかなくなります。大火事になる前に消し止めなければなりませんからな」
「大火事になる? そんな馬鹿な」
 おゑんは軽くかぶりを振った。
「さっぱり見当がつきませんが、あたしを探っていたのなら、飽くまであたし一己に纏わる話でしかないでしょう。川口屋さんが気に掛けるような類(たぐい)のものじゃありませんよ。あたしが自分で何とかします。他人さまにご厄介をかけたくありませんから」
 珍しく正論を口にしているなと、おゑんは少しおかしかった。道理に適(かな)った論は大切だし、入り用でもある。人の世の背骨のようなものかもしれない。けれど、自分にはそぐわない。
 女の腹に宿った子を闇に葬るのか、闇からすくい上げるのか。そういう決断を道連れに生きている身には、正論などお荷物でしかない。拘(かかずら)っていては二進(にっち)も三進(さっち)もいかなくなる。
「そうもいきませんよ、先生」
 平左衛門は、おゑんの言い分をあっさりと切り捨てた。
「申し上げましたように、火種が吉原なら知らぬ振りをするわけには参りません。小火(ぼや)のうちに消しておかないとね」
「吉原に火種があると決めつけられますか? たまたま、吉原であたしのことを嗅ぎ回っている者がいた……今でもいるかもしれませんが、ええ、たまたまってことも考えられるでしょう」
「先生、わたしは吉原の惣名主です。たまたまで事を片付けてしまうわけには参りません。この件が吉原には一切関わりないと判じられるまで、動いてみますよ」
「どう動くんです」
「今、“役者の治兵衛”について、探らせております。半端者同士の喧嘩か女絡みの諍いだろうと放っておいたのは、わたしの手落ちでした。やつが先生のことを嗅ぎ回っていたと気付くのが遅すぎたのです」
「川口屋さんがそのことに気が付いたのはいつです」
「昨日ですよ。花魁が先生を呼び出したと美濃屋さんから聞きまして、何事かと思いましてね。美濃屋さんは、先生に逢いたい想いが高じての文だろうと気軽に考えておりましたが、あの安芸が、そんな真似をするだろうかと、わたしは少し疑念を持ちましてね。あれは辛抱強い女です。先生が次に来られるのを待つぐらい、できたでしょう。それをわざわざ急(せ)いたように文を書くとは、何事かとね。それで、美濃屋さんを通して探ってみました。そしたら、治兵衛の件が引っ掛かってきたんですよ」
「花魁に直(じか)に尋ねなかったんですね」
「尋ねませんでした。先生の件になると、安芸は些か情が勝ち過ぎますからな。他の見世の女郎を、ましてや花魁の心を乱すような真似はできません。まあ、それやこれやで、後手後手に回ってしまいました。甲三郎のことだから、何かをくわえてくるとは思うのですが……」
「甲三郎さんが動いているのですか」
「ええ、何にでも役に立つ、重宝な男ですよ、あれは。近いうちに、その、へのへのもへじ男とやらを捕えてくるかもしれませんな」
「川口屋さん」
 おゑんはため息を吐いた。背中に薄く汗が滲んでいるのは、異国の酒のせいだろうか。
「いいかげん、本当のことを教えてくれませんかね。なぜ、そんなに、あたしに構うんです。火種、火種と仰いますが、あたし一人がどうなったとしても、吉原に飛び火するとは考えられないでしょう。どうして、そこまで拘(こだわ)るんです」
「先生とは、良いお付き合いをさせていただいております。わたしとしては、そのお付き合いの程を壊したくないのですよ」
「馬鹿なことを」
 つい、言い捨ててしまった。
 馬鹿なことだ。戯言でしかない、
 川口屋平左衛門が、おゑんとの付き合いを重んじて、おゑんのために動くなどあり得ない。治兵衛という半端者が何をしたとしても、どんな殺され方をしていても意に介すはずがないのだ。花魁がさらに、おゑんにのめり込めば、それなりの手を打つかもしれないが、そこはこの一件とは無縁の話となる。
「真ですよ、先生。戯言でも冗談でもございません。わたしの本心の声です」
「信じられませんね。あたしは、吉原の火種になれるほどの大物じゃござんせんからねえ。それこそ、自分の程は心得ているつもりでおりますが」
 平左衛門も息を吐く。
「先生ほどのお方でも、己のこととなると読み違えをなさいますか」
「え?」
 少し伏せ気味だった目を上げ、平左衛門は告げた。
「十分に火種になりますよ」
 ぼそりと呟いただけの声なのに、耳に突き刺さってくる。

(この章、続く)
 

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