竹は女の樹だ。細く、風に容易くしなってしまう。けれど、容易く折れはしない――。江戸の片隅の竹林を背負った家で、「闇医者」として子堕しを行うおゑん。彼女の許に、複雑な事情を抱えた女たちがやってくる。

 

 

〈前回はこちら〉

 

           六

 両国橋を渡り、広小路を抜け、米沢町(よねざわちょう)に入る。
 両国広小路を歩くたびに、江戸どころか日の本中の者が集まっているのではと、埒もない思いに惑わされる。季節にかかわらず汗を滲ませる人いきれから逃れ、米沢町の表通りに辿り着く。そこで、やっと息が吐けた。
 通りにはそれなりの人が行き来して、道の両側にはさまざまな店が並んでいる。他の町と変わらない表通りの風景だ。穏やかで、静かで、落ち着いて見える。
 風が吹いて、店先の暖簾を揺らした。
 懐紙で首筋と額の汗を押さえ、おゑんは歩き出した。
 紫の暖簾が揺れる質屋の、樽の並ぶ味噌屋の、六角筒の下から筆のように髪をぶら下げている髪文字(かもじ)屋の、糊と油の匂いのする唐傘屋の前を通り過ぎる。
 久しぶりだ。この通りを歩くのは、いつ以来だろうか。
 十年、十五年……。おゑんは胸内で小さく笑う。
 ずい分と大昔じゃないか。そうか、大昔になっちまったんだね。
 足が止まった。
 安産膏(あんざんこう) いのや
 立看板の文字を目で追う。記憶にあるものより、大きく鮮やかだった。看板自体が新しいのだ。庇(ひさし)の上の屋根看板は古びて、その古さが老舗の佇まいに趣を与えていた。これはおそらく、百年近く前、伊野屋がここに店を開いたときから変わらずあるのだろう。
 坊主頭の医者と思しき男が一人、店先に座り手代から薬を受け取っていた。もう一人、これは羽織袴の武家風の老人が、薬の取り扱い方を伝えられている。他にも二人の客がいて、手代たちが相手をしていた。
 なかなかに繁盛しているらしい。
「ご新造さま」
 声を掛けられた。
 店の奥から若い男が近づいてくる。羽織を纏っているから番頭だろうか。それにしては、歳が若過ぎる。色黒の四角張った顔に太い眉。つい、下駄を思い起こしてしまう容貌だ。ただ、肌にも髪にも艶があり、その艶が若さを誇っているようだった。
「いらっしゃいませ。生薬をお求めでしょうか」
「いえ、そうじゃありません」
 下駄顔の男は意外という風に顎を引き、口元を窄めた。
「そうですか、それは失礼いたしました。お医者さまのお家(うち)の方だとばかり思い込んでしまいましてね」
「医者ですよ」
 男がにっと笑った。色黒のせいか、覗いた歯がやけに白く目に映る。
「やはり、そうでしたか。わたしの目に狂いはなかった」
「医者だと、わかるものですか?」
 男に促され、おゑんは店先に腰を下ろした。客ではないと告げたのに、男の愛想は変わらなかった。根っからの商売人なのか、人懐こい性質なのかと、おゑんは考える。
「ええ、わかりますよ。わたしも生薬屋の端くれにおりますから。お医者さまとは縁が深(ふこ)うございます。お医者さまご本人はもちろん、お家の方も、何でしたら見習いの方まで見分けられる勘みたいなものが身に染み付いております」
「染み付いて……不躾で申し訳ありませんが、もしかして、このお店のご主人でいらっしゃいますか」
 皓歯(こうし)を見せ、男が頷いた。そして、軽く頭を下げる。
「はい。主の伊野屋宗兵衛(いのやそうべえ)と申します。お見知りおきください」 
 おゑんは束の間、伊野屋宗兵衛と名乗った男を見詰めた。すぐに、それがずい分と無礼な振る舞いだったと気付き、目を伏せる。
「ごめんなさいよ、重ねて不躾な真似をいたしました」
「あ、いえいえ。とんでもございません。わたしの方こそ、ご新造さまをお呼び止めしてしまって、申し訳ございませんでした」
「違いますよ」
「は?」
「あたしは独り身です。誰の妻女でもござんせん」
「え、あ、そうでしたか。お許しください。さっき、お医者さまの家の方だと仰ったので、てっきりご新造さまかと思い込んでしまいまして」
「あれは、あたし自身が医者だと申し上げたつもりでしたが」
「えっ、ご新造さ……いえ、あなたがお医者さま?」
「はい。申し遅れましたが、ゑんと申します」
「……おゑん先生、ですか」
 宗兵衛の黒目が左右に動く。目の前に座るおゑんではなく、宙に漂う何かを追っているかのようだ。武家の老人と手代が何か真剣に話し合っている。坊主頭の医者は生薬の袋を手に、店を出て行った。通りから唐辛子売りの声が響いてくる。
 とうがらし、とうがらし、なないろ~とうがらし。
「おゑん先生……聞いた覚えがあるような……え、でも……」
 宗兵衛の口元が妙な具合に曲がった。黒目がさらにうろつく。今度は、何かを追っているのではなく、おゑんと目を合わせられなかったのだ。
 おゑんは薄く笑んでみせた。
「おや、お耳に入っていましたか。さすがですね」
 子堕しを生業とする闇医者。金と引き換えに腹の子を流す医者。老舗の生薬屋の主人には、そんな噂が届いているのだろう。
 宗兵衛は噂の主を厭い、関わりたくないとおゑんを慇懃(いんぎん)に追い出すかもしれない。その恐れは十分にあった。これまでも、おゑんに纏わる世間の噂を真に受けた相手から、ずい分と邪険な扱いを受けてもきた。それはそれで構わない。他人が何を信じ、どう振る舞うか。気にしても仕方ない。そもそも気にならない。他人に振り回されていては、医者稼業など務まりはしないのだ。ただ、今、宗兵衛に拒まれるのは些か応える。「お客さまでないなら、お引き取りください。何も話すことはありません」と撥(は)ね付けられたら、お手上げだ。何を尋ねることも、確かめることもできなくなる。
 もっとも、尋ね、確かめる相手は既にいない。その見込みは高い気がする。
 遅すぎたか……それでも、できる限りのことを、ぎりぎり何ができるのかを探る。
 おゑんは笑みを消し、真顔で宗兵衛に向き合った。
「けどね、伊野屋さん。今日は噂の俎板(まないた)に載っている医者としてではなく、あたし一己の用事で伺ったわけで……」
「はっ、噂?」
 宗兵衛が僅かに首を傾げた。
「何の噂です、先生」
 おゑんも首を傾げたくなる。
 話が噛み合っていない?
「あたしに関わる噂ですが……伊野屋さんはご存じない?」
「あ、はぁ、とんと存じあげておりませんで、あ、申し訳ありません」
 宗兵衛が真顔で詫びるのに、おゑんはかえって戸惑ってしまう。
「あの、それでしたら、どういう経緯であたしの名前に覚えがおありだったんです」
 戸惑ったときは、いらぬ小細工をしない。真っ直ぐに、動いてみる。その方が六・四の割合で上手くいく。おゑんがこれまで生きてきた年月で学んだ処世術、いや、人の世の真理だった。その真理に沿って、動く。
「ええ、そうなんです。確かに先生のお名を聞いた覚えがあるんです。頭に引っ掛かっていて……おゑん先生、おゑん先生……あっ、そうだ」
 宗兵衛が自分の膝をぽんと叩いた。
「親父です。そうだ、そうだ。親父から聞いたんだ」
 宗兵衛の面(おもて)が明るくなる。胸の痞えが下りたという表情だ。
「親父さま、というのは先代の伊野屋宗兵衛さんですね」
「さようです。四代目伊野屋宗兵衛でございます。そうそう、思い出した。こうやってしゃべっていると、次々思い出されるものですね。もう、半年かそれ以上前になりますが、膏薬の話をしておりましてね」
「膏薬、ですか。ああ、伊野屋さんといえば“安産膏”で有名ですからね」
 膏薬で安産が約束されるはずもない。しかし、伊野屋の安産膏は、子を孕んだ女たちに、大層な人気があった。産み月が近くなれば、仰向けで横たわるのが無理なほど腹は大きく、重くなる。当然ながら、身体を支える腰にはかなりの負担がかかり続け、多くの女たちが痛みを訴える。加えて、膝の痛みに呻く者も大勢いた。

(この章、続く)

【関連記事】
あさのあつこ「孫の誕生日プレゼント、お年玉、七五三……わが家のルールは」

 

あさのあつこさんの小説連載「春待てば」一覧

 


『闇医者おゑん秘録帖』シリーズ好評発売中! 

闇医者おゑん秘録帖(中公文庫)
闇医者おゑん秘録帖(中公文庫)
作者:あさのあつこ
出版社:中央公論新社
発売日:2015/12/19
amazon 楽天ブックス honto 紀伊國屋書店 7net
闇医者おゑん秘録帖-花冷えて(中公文庫)
闇医者おゑん秘録帖-花冷えて(中公文庫)
作者:あさのあつこ
出版社:中央公論新社
発売日:2018/12/21
amazon 楽天ブックス honto 紀伊國屋書店 7net
闇医者おゑん秘録帖-残陽の廓
闇医者おゑん秘録帖-残陽の廓
作者:あさのあつこ
出版社:中央公論新社
発売日:2023/3/8
amazon 楽天ブックス honto 紀伊國屋書店 7net