「伊野屋さん、苦しいですか。ちゃんと、息ができますか」
「……ああ、大丈夫……だ。けど、おゑんさん……もう、そんなに……ときが残ってない」
「横になりましょう。身を起こしていると辛(つろ)うござんしょ」
「いや……構わない。もう、苦しいときは、過ぎたようで……あまり、何も感じなくて……だから、構わなくて……わたしに何を尋ねに……きた」
薄い胸が波打っている。
これ以上は無理だ。無理を重ねれば、病人の命を縮める。
先代が背筋を伸ばし、告げた。
「話しなさい」
強く一言を発した後、肩で息をする。
「何を……訊きたい。話せるうちに、早く……」
ここまできて躊躇などするな。
そう言われたのだ。おゑんは居住まいを正し、「はい」と答えた。
「伊野屋さん、日野光陵(ひのこうりょう)が今、どこにいるかご存じですか」
「光陵……」
先代の黒目が宙に向けられ、眼差しがさまよう。
「なぜ……今さら、光陵のことを……」
「知らねばならないからです。気になることが、起こりました。それに、光陵が噛んでいるかもしれないと思ったのです。飽くまで、あたしが思っただけに過ぎませんが」
「それは……おゑんさんの身にも関わって……いること……」
「はい。伊野屋さん、もしかしたら、あたしはもう一度光陵に会わねばならないかもしれません。もしかしたら、ですが」
「……何のために……」
何のために? そこを上手く話せる自信がない。おゑん自身が、ほとんど見えていないのだ。暫く考え、正直に告げる。
「何のためか、はっきりとはわかりません。ただ、人が一人、殺されました」
返事はない。おゑんは繰り返した。
「人が殺されたのです。伊野屋さん」
やはり何の返答もなかった。そして、先代がぐらりと揺れた。お定が腕に力を込め支える。先代の身体は、その腕の中にくずおれていった。
「横にして、そのまま、寝かせてください。伊野屋さん、伊野屋さん、しっかりしてください。あたしの声が聞こえますか」
「おとっつぁん。おとっつぁん」
宗兵衛が大声で父親を呼ぶ。
「揺すっちゃ駄目です。大きな声も出さないで」
「けど、先生、おとっつぁんは……」
「疲れたのです。しゃべり過ぎた、いえ、しゃべらせ過ぎました。あたしの罪ですね。ご勘弁ください」
「先生、おとっつぁん、どんな具合でしょうか。元通り元気に……とは申しません。せめて、もう暫く、できれば今年の紅葉を見せてやりたいのですが」
宗兵衛の物言いに、縋る者の切実さが滲む。
おゑんは無言でかぶりを振った。
もって、あと数日。
紅葉どころか、夏の盛りさえ迎えられまい。
「そうですか。やはり駄目ですか」
宗兵衛がうなだれる。逆に、お定は俯けていた顔を上げた。
おゑんと目が合う。
「竹が香りますね」
お定が呟いた。「そういう季節になります」と続ける。
「そうですね。竹の香りはお好きですか、お定さん」
「ええ、とても。あたしも大旦那さまも好きですよ。大旦那さま、梅や桜の香りより良いと言うておいででした」
宗兵衛が眉を顰める。
「お定、今、竹の香りなんぞ、どうでもいいだろう」
声音にも目つきにも怒気が含まれている。お定は瞬きを一つしただけで黙り込んだ。
「ところが、そうでもないんですよ、伊野屋さん。竹の炭は嫌な臭いや湿気を取り除く効がありますからね。手に入れて、部屋の隅にでも置いておくといいと思います。病人の気持ちが少しでも晴れるかもしれません。今、周りにできることがあるとしたら、それくらいです。ええ、先代が快くいられるように気を配る。それだけですよ」
他にできることは、ほとんどない。
暗に告げた意味を悟り、宗兵衛はため息を吐いた。
「さようですか。あの伊野屋さんがそんなに病んでおられましたか」
末音が薬草を選り分けていた手を止める。
「ああ、長く話をするのも難しかったねえ」
「ほとんどお話はできなかったんですの」
「そうだね。でも、通じたよ」
末音はおゑんを見上げ、心持ち首を傾げた。
「通じた? おゑんさまが訪れた理由を伊野屋さんが解したと?」
「そうさ。そして、答えてくれると思うよ」
おゑんは薬草茶を一口すすり、ほっと息を吐いた。
数刻前、目にした伊野屋の様子を末音に伝えたところだ。末音相手なら言葉を選ばなくていい。おゑんが目にしたもの、感じたことをそのまま告げる。
「けれど、おゑんさま、伊野屋さんとは、ほとんど話もできなかったのでございましょう」
「そうだね。でも、答えてくれるさ。伊野屋さんは本気の問い掛けには本気で答えてくれる。そういうお人だったじゃないか」
「それは昔の、若くお元気なころの伊野屋さんのことでございましょう」
「若く元気だろうが老いて病んでいようが、自分の本質を変えないでいられる。そういう者は、けっこういるんじゃないのかい」
末音が軽く肩を竦めた。
「では、言い直しますの。物も言えぬような病人がどうやって、答えを伝えられますかの」
「それは、あたしにはわからないね。ただ、伊野屋さんは、あたしの住処がどこにあるか知っていた。もしかしたら、近くまで来たことがあったかもしれないね」
「言い切れる何かがございましたかの」
「ああ、ずっと伊野屋さんの世話をしていたお定さんてばあやが、あたしの去り際に『竹が香りますね』と、言ったのさ。あれは、この家が竹林を背負っていると知っている。それを暗に報せてきたんじゃないのかねえ。だとしたら、答えを届けてくれる見込みはあるさ。だろ?」
末音が薬草の根を切り落とした。青い匂いが漂う。
「なぜ、暗になのでございましょうかの。そんな、面倒な言い回しをせずとも、直に知っていると言えばよいだけのことでは、ありませぬかの」
「直に言えなかったんだろう」
「なぜです?」
「はっきりとはわからないね。おまえは、なぜだと思う」
「おゑんさまがおわかりにならぬなら、わたしにも判じられませぬよ。で、おゑんさま」
末音の眸がちらりと動いた。
「光陵は、また、米沢町に舞い戻ったのでしょうかの」
「そうだね。そのあたりを伊野屋さんから聞き出したかったのだけれど……」
おゑんは口を閉じ、立ち上がった。末音も腰を上げる。
慌ただしい足音。さほど大きくはないのに、不穏に響く。耳の奥まで響いてくる。
「おゑん先生、先生」
お丸が駆け込んできた。患者たちの世話のために雇った女だ。陽気で、よくしゃべり、陰ひなたなく働いてくれる重宝な奉公人だ。
名前通りの丸い顔が歪んでいる。
「来てください。お春さんが呼んでます。三千恵(みちえ)さんが急に苦しみ出して」
三千恵は腹の子の始末を願って、おゑんの許を訪れた患者だ。疲れ切り、窶れ、子を堕ろすにしても産むにしても、とうてい耐えられる心身ではなかった。だから、暫くの休養を勧めた。「ともかく、心と身体を恢復させねば話になりませんね。きちんと寝て、食べて、思案が回るようになってから、先を決めましょう」と。
しかし、三千恵の身体は持ちこたえられなかった。
子が流れたのだ。
(この章、続く)












