末音は静かに息を吐いた。
「もう、手遅れでございますよ」
「末音!」
「おゑんさま、誤魔化してはなりませぬ」
「誤魔化す、だって?」
末音が頷く。ほんの束の間、目を閉じ、もう一度かぶりを振った。
「おゑんさまなら、おわかりでしょう。手遅れです。できることは何もありませぬ」
「だから、諦めろって言うのかい。このまま、見ていろと」
「諦めるのが嫌だから、腹を開いて治療なさるおつもりですかの。もしかしたら、越冬虫が効いて、三千恵さんは深く寝入るかもしれません。痛みを感じさせず、腹を開くことができるかもしれません。けれど、助かりませぬよ。越冬虫の危うさをひとまず、考えないとしても駄目です。助かりませぬ」
末音と目を合わせる。皺に囲まれた双眸からは、どんな情も読み取れなかった。
「おゑんさま、この様子では三千恵さんの腹の内には相当の血が溜まっておりますよ。それを綺麗にして、病巣なり傷なりを見つけ、手立てを講じる。ええ、おゑんさまならできるかもしれません。できるでしょう。けれど、三千恵さんがもちません。三千恵さんの身体ではとうてい耐えられません。途中で息が絶えます。おゑんさまに、それがわからぬはずがございませんの」
唇を噛む。その通りだ。三千恵がもたない。
「先生……痛い……苦しい……楽に……楽にして。ううっ」
三千恵の指がおゑんの手首に食い込んでくる。汗と血と苦悶の声が混ざり合い、おゑんの身中に染みてくる。
どうあっても、駄目か。あたしには、この人を助ける力がないのか。
「……持っておいで」
末音を見据え直す。
「急いで、越冬虫を持っておいで。すぐにだ」
末音が唇を結んだ。その表情のまま無言で立ち上がる。足音も立てず、部屋を出ていく。
手首に食い込んでいた指が解けた。下に落ち、夜具の端を握る。
もう声が出なくなった。辛うじて「たすけて」と唇だけが動いている。
「お春さん、三千恵さんをしっかり支えておいておくれ」
「あ、はい」
お春が自分の胸にそっと、三千恵を抱き直した。おゑんは手拭いで、汗と血に汚れた顔を拭ってやる。「三千恵さん」。呼びかけたけれど、三千恵は乾いた唇を震わせただけだ。目も口も眉も痛みに歪んではいるが、痛みを訴える力さえもないようだ。
末音が入ってくる。手には小さな玻璃の器が載っていた。
おゑんは受け取った器から、中身を一匙すくう。それを半開きになった三千恵の口近くまで運んだ。指先が冷たい。匙の先が震える。
「おゑんさん」
お春が悲鳴のように、おゑんを呼んだ。
「待ってください。いいんですか、本当に……」
「三千恵さんを楽にできるのは、これしかないんだよ」
「でも……いえ、それなら、あたしがやります」
お春は静かな口調で告げた。
「あたしにやらせてください、おゑんさん」
おゑんはかぶりを振った。二度、三度。
「これは、あたしの役目なんだ。あたしの、ね」
前屈みになり、三千恵の耳元に囁く。
「三千恵さん、この薬はね、あんたを痛みから救うかもしれない。でも、あんたの命を奪うかもしれないんだ。かもしれないばっかりで、ごめんよ。許しておくれ。でも、今のおまえさんを楽にする手立てが、これしか思い浮かばないんだよ」
三千恵が薄く目を開けた。
「らくに……なる……」
息の音と違わない、微かな声が漏れた。
「せんせ……」
三千恵がお春から身を離す。背筋を立て、自分の力で座る。
「えっ」。お春が頓狂な声を上げた。おゑんも末音も、驚きのあまり声を上げられない。三千恵が自ら、匙をくわえた。そのまま、黒い薬を呑み下す。末音が吸飲みの口を差し出す。珍しく慌てている。吸口の先から雫がぽたぽたと落ちて、夜具を濡らした。三千恵はその吸口に唇を当て、水を飲んだ。こくこくと音がきこえるほどの勢いだった。
吐き戻しはない。唇の端から水が一筋零れただけだ。
「三千恵さん……」
おゑんは自分が持っている匙に目を落とした。空っぽだ。何もない。
「……せんせい……ありがとう……ぞんじま……」
三千恵の身体から力が抜けた。そのまま後ろに倒れる。お春が支え、ゆっくりと夜具に横たえた。三千恵の胸が大きく膨らんだ。息を吸い込んだのだ。それをゆっくり吐き出す。もう一度深く息を吸い、吐く。それを何度か繰り返した。もう、喘いでも、息を乱してもいない。頬に仄かに血の色が戻っている。
信じられない。
さっきまで、声さえ出せなかった病人が息を整え、顔色を明るくしている。
おゑんも末音もお春も、ただ、見詰めていた。誰も何も言わない。その間も、三千恵の頬は赤みを増し、脂汗は消えていく。
「もう……いたくない……」
三千恵の声は、ぼやけてはいるけれど苦痛の響きはなかった。
「せんせい……もう……いたくない……でも、ねむ……い」
おゑんは夜具の上の細い手を握った。
「眠いなら、ゆっくりとお休み。今まで、よく踏ん張ってきたね。もう、誰に遠慮することもないよ。踏ん張り続けなくて、もういいんだ。だから、お休み」
「……とても……ねむい……きもちよくて……」
三千恵の瞼が微かにひくついた。長い息が漏れる。
「三千恵さん?」
お春が三千恵の顔を覗き込む。口にそっと手を当てる。それから、おゑんに顔を向けた。末音が身じろぎする。
「おゑんさん、息が……」
「ああ、止まっている。脈も取れない」
おゑんは、三千恵の手を夜具の中に入れた。
「お春さん、お湯の用意を頼んでもいいかい。三千恵さんを綺麗にしてあげないとね」
「おゑんさん!」
お春の声が引き攣る。喉の奥からせり上がってきたような声だ。
「これは、これは何なのです。さっきまで、あんなに苦しんでいた三千恵さんが、どうして、こんな風に亡くなるんです。どうして……」
「信じられないね」
呟いていた。本音だ。
信じられない。あれだけの苦痛に呻いていた者が、こんなに穏やかに、まさに眠るように生を終えた。もう痛くない。とても眠い。気持ちいい。三千恵の遺した言葉を拾う。
あれだけの苦痛。この穏やかさ。眠るような最期。
「末音、どう思う」
「わかりませぬの。ただ、越冬虫は人の痛みをほぼ取り除くことができるようですの。そして、人を死に結び付ける。そう考えられますかの」
死に結び付けることで、苦痛を消してしまえるのか。
命を代償に、安らかな死を約束する。
「痛みに苦しみながら死んでいく。もう助かる術がない。そういう者には、願ってもない薬になるかもしれませんの。調合次第では、苦痛のないまま最後の数日を過ごせるようになるかもしれません。何とも謎の多い、使い方によっては剣呑な薬となりますの」
「そうだね。そして、医者なら誰だって手に入れたいと望む。そんな薬だよ」
寒気を覚える。この世のあらゆる苦から解き放たれた者の顔に、おゑんは改めて目をやる。柔らかく笑んでいた。












