「いろいろなレッテルを貼られて皮膚呼吸もできない、と自分で作った部屋に閉じこもっていた。その部屋のドアが大きく開いて、すがすがしい春風が入ってきた。イヴ・シァンピが春風をまとって入ってきたのです」撮影:Ikuo Yamashita
女優として、作家として活躍する岸惠子さん。転機を軽やかに越えてきた経験が、87歳の今も情熱を持って生きる力となっています。人生を大きく変えた3つの節目を訊ねるため横浜へ赴くとーー。前編は一つ目の節目「結婚」について。結婚を決断した理由、フランスでの新婚生活など、当時を振り返ります。(構成=水田静子)

「結婚」ー持ち前のあとさき考えない行動力だった

──どんな人生にも、節目となる出来事があると思いますが、まずは女性にとって大きな転機といえる結婚について伺いましょう。岸さんは大スターの地位をなげうって、1957年にフランスの映画監督イヴ・シァンピさんと結婚なさっています。そのときにはどのような決意があったのでしょうか。

私にしては珍しくじわじわと心に満ちてきた、「わりなき覚悟」(笑)に従ったのです。でも若さゆえの無鉄砲な決断だったともいえますね。当時、個人的な海外旅行は禁じられていたので二度と帰って来られないかもしれないし、両親にとっては大事な一人娘だし、女優としては、たぶん絶頂期といわれる時期だったし、演じることに強い意欲が湧いてきた頃でもあったし……。でもね、イヴ・シァンピという人のあの静かで深い眼差しはすてきだった。

「日本は素晴らしい国だ。でも地球の上にはいろいろな国があり、いろいろな人間が住んでいる。それらを見て、大きく変わる感受性があなたにはある」と言われた。くどき文句じゃないのよ。(笑)

ただ私はがむしゃらに、シァンピ監督の招待を受けて、世界というものを見てみたかった。

『忘れ得ぬ慕情』という作品で監督と女優という形で出会って、それ以上のもっと運命的なものを感じた。それからは、持ち前のあとさき考えない行動力だったのかな。見切り発車。この無鉄砲さはもう私の性分なのでしょう。人生は予想もつかないものだと思っていて、突然の出来事や未知なるものに惹かれると、その先にどんな波瀾や危険なことが起ころうと、走り出してしまう。

──シァンピさんには、「見切り発車」をさせる魅力があったということでしょうか。

計り知れない魅力がありました。私は女子高からいきなり映画界という世界に入って、下積みの苦労もなく、なんとなく「スター」というものになっちゃったのね。男の人は学校の先生と、映画界に生きる人しか知らなかったのです。

彼は私の周りにいるどんな人とも違っていました。監督である前に、医師であった。彼が医科大学にいるとき、パリはナチス・ドイツの占領下にあったわけです。彼は、イギリスから「自由フランスよ、立て!」と呼びかけるドゴール将軍に賛同し、12人の医科大学生とともに地下運動の闘士になり、軍医としてたくさんの人の命を救ったんですって。これは、彼からではなく、彼のおかげで命拾いをしたという人から後年聞きました。彼は自慢話を絶対にしない。失敗談を面白おかしくしながら、戦争という悲惨を語るのがすごくうまかった。座談の名手でしたね。

……ごめんなさい。私の話すぐ飛んじゃうんです。これだけ長く生きて、語りきれない苦楽を経験していると、時間や場所が吹っ飛んで、パチパチといろんなイメージが湧いてしまうの。私の悪い癖です。(笑)