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女優として、作家として活躍する岸惠子さん。転機を軽やかに越えてきた経験が、86歳の今も情熱を持って生きる力となっています。人生を大きく変えた3つの節目を訊ねるため横浜へ赴くと――。後編は「離婚」、そして「作家としてのデビュー」について語ります(構成=水田静子)
「離婚」 紙一枚、スプーン一本持ち出さなかった
──結婚されたのが24歳。18年弱の結婚生活の後、41歳で離婚されましたが、ちょっともったいなかったようにも思えます。
でも、あれで私たちの結婚はある意味、完結したのです。彼の寛大さに甘んじて私は自由でありすぎた。男の人というのは洋の東西を問わず、愛する妻なり恋人には、自分の傍らにいてほしいのです。ところが私は、逃れようもなく「女優」だった。不在が多すぎました。当然しのびよってくる女性がいるわけです。
このあたりのことは、絶版になっていて惜しいのですが、エッセイ賞をいただいた私の処女作『巴里の空はあかね雲』の冒頭の2篇に書き下ろしましたので、割愛させていただくわね。
住み慣れたシァンピ家を出たのは、パリに着いた日と同じ5月1日です。どうしてもこの日にしたかった。私の2度目の独立記念日です。
車にスーツケースと、嫁ぐときに母から贈られた三面鏡を積んで、娘と彼女の愛犬を連れて出ました。あのとき私はどんな顔をしていたんだろう。バックミラーに映った遠ざかりゆくイヴは、陽炎に揺れながら滂沱(ぼうだ)の涙をながしていました。
シァンピ家のものは、紙一枚、スプーン一本持ち出しませんでした。潔い? そうかしら? 私は役にも立たない美意識みたいなものを頑固に抱え込んでいたのです。一生の大事なときにものごとを損得で考えることは絶対にできない。
だから、慰謝料も養育費も、金銭はいっさい受け取りませんでした。そうしたらイヴが、「せめて、(娘の)学校の授業料だけは払う。これは義務であると同時に、父親としての権利でもある」と言うので、2年間払ってもらいました。
さあ、これからが私の出番だ! と思いました。もちろん別れというものはつらいですよ。胸に浸みこむ寂しさはありました。けれど何より、もう気がねをしないで自分で思う存分、働ける。そのことがとてもうれしくて力が満ちてきました。この人情硬いパリで、日本の女がひとりで娘を育てあげるという覚悟です。
ジャンジャン働いて、学費提供も2年で打ち切ってもらいました。NHKの衛星放送のキャスターも始めて、世界の要人たちにインタビューをするなど、仕事も広がっていきました。