詩人の伊藤比呂美さんが『婦人公論』で連載している好評エッセイ「猫婆犬婆(ねこばばあ いぬばばあ)」。夫が亡くなり、娘たちも独立、伊藤さんは20年暮らしたアメリカから日本に戻ってきました。熊本で、犬2匹(クレイマー、チトー)、猫2匹(メイ、テイラー)と暮らす日常を綴ります。Webオリジナルでお送りする今回は「妖怪鍵喰らい」。昔からいろんなものをなくしてきたという伊藤さん。それでも、年末年始に起きた鍵の紛失は不可解だったようで――。(文・写真=伊藤比呂美さん)
昔からいろんなものをなくしてきた。
うちの娘たちが携帯を使い始めたとき、あたしなら絶対なくすなと思って見ていたが、誰もなくさないので不思議だった。
かくいうあたしも、携帯やスマホは何度も落っことしてひびだらけだが、なくしたことはない。しかし。
財布をなくした。クレジットカードを何度もなくした。パスポートをなくした。運転免許証をなくした。グリーンカード(アメリカの永住ビザ)すらなくしたことがある。どれも困ったが、いちばん困ったのがグリーンカードだ。長い列に並び、失礼なことはされてないのにどうも屈辱的というへんな気分を味わいながら再発行にこぎつけた。
去年の11月、補聴器をなくした。
片耳50万、ほんとに焦った。東京に行こうとして家を出た。補聴器はあとで装着しようと思ってコートのポケットに入れた。赤信号で停まったときに、片耳しかないのに気づいた。ばばばばと高速で脳内計算をして、このまま東京に行くか家に帰って探すか、帰って探したら授業には遅れる飛行機も取り直しになる。しかしなにしろ片耳50万、帰って探すを数秒で決断し、アドレナリンというやつが洪水みたいに出てるのを感じながら家に帰ってブルドーザーみたいに探したのだが、そのとき、どさくさに紛れて車のスペアキーをなくした。わからない。どこでなくしたか。補聴器も見つからなかった。
片耳50万片耳50万と考えながら東京を渡り歩き、二日後に熊本に帰り、アドレナリンの出てない脳で冷静に探したら、車の中の座席の裏に。
見つかった。何が?
補聴器が。
でもスペアキーは見つからなかった。